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宣統帝溥儀 : ウィキペディア日本語版
愛新覚羅溥儀[あいしんかくら ふぎ]

愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ、アイシンギョロ・プーイー、満州語:、転写:Aisin gioro Pu i、1906年2月7日 - 1967年10月17日)は、清朝第12代にして最後の皇帝(在位:1908年12月2日 - 1912年2月12日)、後に満洲国皇帝(在位:1934年3月1日 - 1945年8月18日)。1964年から中華人民共和国中国人民政治協商会議全国委員。
中華圏最後の皇帝であり、その生涯を題材にした映画から『ラストエンペラー』として知られる。清朝皇帝時代には、治世の元号から中国語で宣統と称された。清朝滅亡後に日本政府の支持のもと満洲国の執政に就任、満洲国の帝政移行後は皇帝に即位し、康徳と称した。満洲国の崩壊とともに退位し、赤軍の捕虜となった。その後中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所からの釈放後は一市民として北京植物園に勤務、晩年には中国人民政治協商会議全国委員に選出された。
を「浩然」あるいは「耀之」という。辛亥革命後の呼称としては、廃帝国民党政府から呼ばれる一方、旧清朝の立場からは遜帝(「遜」は「ゆずる」の意)とも呼ばれた。末代皇帝(末帝)と呼ばれる場合もある。
== 生涯 ==

=== 年表 ===

* 1906年醇親王載灃の子として北京に生まれる
* 1908年:第12代清朝皇帝(宣統帝)に即位
* 1912年辛亥革命により退位
* 1917年張勲復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位
* 1919年イギリス人のレジナルド・ジョンストン帝師として招聘
* 1922年:正妻の婉容側室文繍と結婚
* 1924年クーデターにより紫禁城から退去。ジョンストンが帝師を退任
* 1925年:イギリスやオランダ公使館へ庇護を要請するものの拒否され、天津日本租界内張園に移転
* 1931年:文繍と離婚。満洲事変勃発後、大日本帝国陸軍からの満洲国元首への就任要請を受諾し、日本軍の手引きで天津を脱出、満洲へ移る
* 1932年:満洲国の建国に伴い満洲国執政に就任
* 1934年:満洲国皇帝(康徳帝)に即位
* 1935年:初の外国訪問として日本を公式訪問
* 1937年譚玉齢を側室とする
* 1940年:日本を再び公式訪問、最後の外国訪問となる
* 1942年:側室の譚玉齢が死去
* 1943年李玉琴を側室とする
* 1945年:満洲国の崩壊に伴い皇帝を退位し、その後日本への亡命途中に、侵略してきたソ連軍捕虜になる
* 1946年極東国際軍事裁判ソ連の証人として出廷させられる、正妻の婉容死去
* 1950年中華人民共和国に身柄を移され撫順戦犯管理所に収容される
* 1959年:模範囚として釈放され、その後北京植物園を経て政協第4期全国政治協商会議文史研究委員会専門委員会に勤務
* 1962年李淑賢と再婚
* 1964年中国共産党政治協商会議全国委員に選出される
* 1967年10月17日北京で死去

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「愛新覚羅溥儀」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Puyi 」があります。



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