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シュリーヴィジャヤ王国[しゅりーヴぃじゃやおうこく]
シュリーヴィジャヤ王国(シュリーヴィジャヤおうこく、Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)はインドネシアやマレー半島、フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。漢文では「室利仏逝」と音訳表記される。王国の起源ははっきりしないが、7世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置をしめるようになった。 == 概要 == シュリーヴィジャヤ王国は、7世紀のマラッカ海峡の交易ルートを広く支配し、多くの港市国家をしたがえる交易帝国であり、東はスマトラ島のパレンバン、西はマレー半島西岸のクダないし北スマトラと、海峡の両端に2つの拠点をもっていた。この海上帝国は、スマトラからマレーにまたがる連合国家で、中国やインドともさかんに通商をおこなった。旅行者の記録ではスマトラの沿岸部では金貨が流通していたが、内陸部には及んでいなかったとしている。 タイ南部スラーターニー県のチャイヤーがシュリーヴィジャヤの一時的な首都だったのではないかと主張する歴史家もいる〔鈴木峻『シュリヴィジャヤの謎』(2008)など。〕が、これには多くの異論もある。ただし、チャイヤーが王国の地域的な中心のひとつであった可能性は高く、チャイヤーのボーロマタート寺院にはシュリーヴィジャヤ様式で再建されたパゴダがある。 1920年代、フランス人歴史学者が、『新唐書』に漢文で「室利仏逝」と記される国が、古代ムラユ語(古マレー語)碑文にいうシュリーヴィジャヤ(''Sribhoja'')ではないかと指摘したことにより、諸資料が再検討に供され、研究が進展した。漢籍には、「室利仏逝」は670年代に出現し、741年まで唐に朝貢する国として登場し、碑文の古代ムラユ語の表記には、南インド系のパッラパ文字が用いられている。碑文は10点ほど残り、王国はしばしば「カダトゥアン」〔ムラユ語で「王国」「王宮」「王都」の意である。〕と呼ばれる。
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Srivijaya 」があります。
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