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室戸型給炭艦(むろとがたきゅうたんかん)は、日本海軍の給炭艦。同型艦2隻。第一次大戦後に補助艦として建造され、石炭を運送する目的のために建造された。石炭のほかに軍需品なども輸送した。 == 概要 == 第一次世界大戦の勃発により民間船需要の逼迫と賃貸料の高騰した〔『世界の艦船 日本特務艦船史』p26。〕。また石炭価格も上昇し、更に上がる勢いだった〔#T7公文備考20/特務艦製造画像5、理由〕。これらのため1917年(大正6年)9月15日に6,000トン積運送船1隻を三菱で建造する事が提案された〔#T7公文備考20/特務艦製造画像4-5『官房第二九三七號 大正六年九月十五日起案 九月廿七日附決裁済 仰裁 運送舩建造ノ件 臨時軍事費支辨ニテ六千噸積運輸船壹隻ヲ三菱合資會社ヲシテ建造セシメ可然哉 右仰髙裁 理由(以下略)』〕。それによると、シンガポール方面の石炭、台湾の粉炭を徳山に輸送、徳山の練炭を横須賀に輸送する費用を民間に委託した場合と海軍所有の運送船で行った場合を比較した結果、海軍運送船で運搬した場合、1年目は建造費を含めてもほぼ同一費用の約243万円となる計算だった〔#T7公文備考20/特務艦製造画像6-8〕。また艦艇の行動区域が拡大し、石炭価格のさらなる上昇と艦艇への給炭の困難が予測された〔〔『写真 日本の軍艦 第13巻』p20では建造理由を「第一次大戦中、ドイツの通商破壊戦に対抗して、日本海軍も東南アジア水域を行動していたが、これに燃料(石炭)を補給するのに民間船を一年雇う費用は、海軍が給炭船を建造して使う諸経費の合計にほぼ匹敵することがわかり、(以下略)」とされている。〕。この提案は同年9月27日に決裁され〔、その後艦艇の活動地域が拡大する情勢のため、ハワイ方面からの石炭輸入と練炭輸送のためにもう1隻建造することも提案され、同年11月24日に決裁された〔#T7公文備考20/特務艦製造画像10-13『官房第三六〇三號 大正六年十一月十七日起案 十一月廿四日附決裁済 仰裁 運送舩建造之件 臨時軍事費支辨ニテ六千噸積運輸船壹隻ヲ三菱造舩株式會社ヲシテ建造セシメ可然哉 右仰髙裁 理由 過般運送舩(室戸)建造方決裁ノ處其ノ後特別任務區域ハ更ニ擴大する趨勢ナルト一方(以下略)』〕。これにより1917年(大正6年)度の臨時軍事費により雑役船として2隻の運送船が計画され、翌年と翌々年に三菱神戸造船所で竣工した。1920年(大正9年)に特務艦中の運送艦(給炭)に類別が変更された。 艦型はいわゆる3島型の貨物船で、艦の前後に12cm砲を各1門ずつ装備する以外は民間のそれと大きな違いはない。アメリカ海軍の給炭艦は大規模な給炭設備を擁したが、本艦型にはそれもなかった。 1番艦「室戸」は1932年(昭和7年)に臨時の病院船設備を搭載した。ただし種別は運送艦のままとされている。この時に船橋楼甲板を延長し2番艦「野島」との区別が容易となった。同時に砲を8cm高角砲に換装している。 「野島」は1930年(昭和5年)にボイラーを宮原缶3基に換装、速力が14ノットに向上した。1932年(昭和7年)には砲を8cm高角砲に換装している。 両艦とも日中戦争、太平洋戦争に参戦し「室戸」は病院船任務と輸送任務に、「野島」は輸送任務に就き両艦とも大戦中に戦没している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「室戸型給炭艦」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Muroto-class collier 」があります。 スポンサード リンク
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