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室田 義文(むろた よしあや、1847年10月27日(弘化4年9月19日) - 1938年(昭和13年)9月5日〔『官報』第3505号、「彙報 錦鶏間祗候卒去」1938年9月7日。〕)は、日本の外交官、政治家、実業家。特命全権公使、錦鶏間祗候、貴族院議員。 == 経歴 == * 水戸藩士室田平八の二男〔。のち脱藩〔。1872年(明治5年)に外務省に入省。洋語学校でロシア語と英語を学ぶ室田に伊藤博文が外務省をあっせんした。 * 1887年(明治20年)8月 - 釜山領事( – 1890年) * 1889年(明治22年)8月19日 - 下級俸下賜〔『官報』第1845号「叙任及辞令」1889年8月22日。〕 * 1890年(明治23年)4月2日 - 任 外務省会計局長、叙奏任官三等、会計主務官 任命〔『官報』第2026号「叙任及辞令」1890年4月5日。〕 * 1891年(明治24年)10月30日 - 大臣官房庶務課兼勤 任命〔『官報』第2503号「叙任及辞令」1891年10月31日。〕 * 1892年(明治25年)5月12日 - 釜山総領事 * 1894年(明治27年) * 11月17日 - 釜山在勤 免、待命中年俸三分の一賜〔『官報』第3419号、「叙任及辞令」1894年11月19日。〕 * 12月26日 - メキシコ在勤 任命〔『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。〕 * 1897年(明治33年) * 3月31日 - 任 弁理公使、叙高等官二等、賜一級俸、メキシコ駐箚 仰付〔『官報』第4121号、「叙任及辞令」1897年4月1日。〕 * 5月17日 - 兼任 総領事、叙高等官三等、ペルー駐箚兼勤 仰付〔『官報』第4106号、「叙任及辞令」1897年5月18日。〕、メキシコ在勤 任命〔『官報』第4161号、「叙任及辞令」1897年5月19日。〕 * 1900年(明治30年)10月2日 - メキシコ駐箚 免、ペルー駐箚兼勤 免〔『官報』第5178号「叙任及辞令」1900年10月3日。〕、待命中本俸全額賜〔『官報』第5179号、「叙任及辞令」1900年10月4日。〕 * 1901年(明治34年) * 1月28日 - 任 特命全権公使、叙高等官一等、賜二級俸、待命中本俸三分の一賜〔『官報』第5270号「叙任及辞令」1901年1月29日。〕 * 2月13日 - 特命全権公使 依願免官〔『官報』第5282号「叙任及辞令」1901年2月14日。〕 * 5月31日 - 貴族院議員 勅任〔『官報』第5372号「帝国議会 貴族院」1901年6月1日。〕 * 6月29日 - 第百十国立銀行頭取となる〔『山口銀行史』〕。 * 12月24日 - 錦鶏間祗候 仰付〔『官報』第5545号、「叙任及辞令」1901年12月25日。〕 * 1905年(明治38年)10月 - 山陽鉄道取締役就任( – 1906年11月)。 * 1909年(明治42年)10月26日 - 伊藤博文に随行中、ハルビン駅において伊藤の暗殺事件に遭遇〔伊藤暗殺から30年後に室田が事件の舞台を語るところによると、安重根の銃はブローニングの七連発拳銃であるが、伊藤の体内から出た銃弾はフランス騎馬銃の銃弾であり、弾痕は安重根からであれば上向きに穴をあけるはずのところ、下向きに穴をあけていた()。〕。 * 1910年(明治43年)5月 - 北海道炭礦汽船取締役会長に就任。 * 1938年(昭和13年)9月5日 - 卒去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「室田義文」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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