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宮下 昌己(みやした まさみ、1965年1月4日 〔週刊ベースボール2012年5月21日号 P105〕- )は、東京都調布市出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 調布市立神代中学校では荒木大輔と同級生。日大三高に進み、エースとして夏の甲子園西東京予選決勝に進出するが、日大二高に完封負け、甲子園出場を逸する〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。 同年ドラフト6位で中日ドラゴンズに入団。には40試合に登板、3勝をあげる。同年は先発としても8試合に起用されるが結果を残せず、翌には中継ぎに専念し50試合に登板、自己最多の5勝を記録した。 1987年6月11日の対読売ジャイアンツ戦(熊本藤崎台球場)で、ウォーレン・クロマティの背中に死球を与えた。その際、クロマティはマウンドに駆け寄りながら、宮下に対し帽子を取って謝るようジェスチャーを交えながら要求。それでも宮下は帽子を取らなかったため、マウンド上でクロマティは宮下の左顎へ右ストレートパンチを放つという暴力事件が当時話題となった。この時、宮下はなぜ帽子を取らなかったかというと、(本人曰く)「あの時、実は狙っていました。でも故意とバレるような投球はしていません、こっちもプロですから。おそらくクロマティだけは空気を読んでいたのでしょう。それに自分も殴られ慣れていますから」と言っていた。また奇しくもこの日は、広島の衣笠祥雄がルー・ゲーリッグ(元ニューヨーク・ヤンキース)に並ぶ通算2130試合連続出場の偉業を達成した日でもあったのだが、翌日のほとんどのスポーツ新聞が宮下とクロマティの一件を一面にしていたため、衣笠の偉業がとても小さな扱いになってしまった。このことについて宮下は「衣笠さんには『本当にすいませんでした』と頭を下げたいですね」と語っている。 その後は登板数が減少、オフに広橋公寿・小川宗直との交換トレードで、大宮龍男と共に西武ライオンズに移籍した。西武では一軍登板のないまま限りで現役引退。 最速で154km/hのストレートと星野仙一を震えさせるほどの気迫がトレードマークだった。 引退後は吉祥寺で飲食店を経営して軌道に乗っていたものの、入居していたビルが住専がらみの物件だったため立ち退きを余儀なくされ、その後移転先が見つからず閉店する〔週刊ベースボール2012年5月21日号 P104〕。その後は派遣社員として様々な企業に勤務し、現在は調布市で家業の米屋(かつては小売りもしていたが、現在は卸売のみ)を継ぐ傍ら、少年野球チームの東京青山リトルシニアコーチを務める。同チームでは後に中日入りした赤坂和幸を指導した経験を持つ。また大久保博元が主催する野球塾でも講師を務めている。 飲食店をオープンした日、現役時代の監督だった星野仙一がお忍びで店に現れた。宮下は緊張のあまり最初から最後まで直立不動のままだったという。(Sports Graphic Numberの記事より) 2007年6月17日に開催されたプロレス興行『ハッスル』にクロマティが参戦。上述の一件の縁から宮下も来場し、クロマティの応援をした。これにはクロマティも宮下に感謝していた。また宮下本人も「今度はクロマティとタッグを組みたい」とその時に語っていた。その後、2013年1月21日に日本テレビ系で放送された「深イイ話&しゃべくり007 合体2時間SP」に登場し、ゲスト出演していたクロマティと再会。笑顔で握手を交わし、四半世紀ぶりの"和解"を果たした。2015年には3月14日にTBS系で放送された炎の体育会TVスペシャルの企画で「マスク・ド・ピッチャー」に扮し、クロマティと1打席勝負を行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮下昌己」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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