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宮原務本 : ウィキペディア日本語版
宮原秀明[みやはら ひであき]

宮原 秀明(みやはら ひであき、1942年9月3日 - 1994年3月21日)は、千葉県出身の元プロ野球選手、スカウト。ポジションは外野手1961年から1968年の登録名は宮原 務本(みやはら つもと)。
== 来歴・人物 ==
長生一高では、1960年の第11回春季関東地区高等学校野球大会に千葉県代表として出場し、チームを初優勝に導く活躍を見せる。同年夏の甲子園県予選では準決勝に進出するが、関根知雄のいた銚子商に敗退。
1961年東映フライヤーズへ入団。当時の東映の外野手には張本勲毒島章一白仁天といった実力者が揃っており、宮原には厳しい環境だった。その中でも四番手の外野手や代打の切り札として起用され、1964年から5年間、準レギュラーとして好成績を残す。1968年には、当時の大下弘監督に打撃を評価され、主にクリーンアップ右翼手として重用された。しかし1969年には打撃低迷によって出場機会が減り、1970年ヤクルトアトムズへ移籍する。ここでも代打や控え外野手として実績をあげるが、1971年途中に近鉄バファローズへ、1973年には大洋ホエールズへと移籍が続く。大洋では打撃成績も振るわず、この年限りで引退した。
引退後は西武ライオンズのスカウトを務めていたが、在職中の1994年3月21日脳内出血のため死去。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宮原秀明」の詳細全文を読む



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