|
宮口 精二(みやぐち せいじ、1913年11月15日 - 1985年4月12日)は、日本の俳優。本名は宮口 精次。 築地座を経て文学座に参加し、同座の中心として多くの舞台に立ち、文学座退団後は東宝演劇部に所属して商業演劇に出演した。戦後から映画にも多く出演、巨匠監督の作品に立て続けに起用され脇役として活躍した。個人雑誌『俳優館』の刊行もしていた。主な出演映画に『七人の侍』『張込み』『日本のいちばん長い日』など。 ==来歴・人物== 1913年(大正2年)11月15日、東京府東京市本所区緑町(現在の墨田区緑)に、大工の父・周市と母・もとの6人兄弟の次男として生まれる〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.575〕。幼時に本所区内の林町に移住する。 中和尋常小学校を経て東京市立第二中学校に入学するが、家庭の経済的事情から同校の夜学である上野夜間中学に転じ、同時に校長の紹介で福徳生命(現在のマニュライフ生命保険)東京支店に給仕として入社する〔。1931年(昭和31年)の卒業後も同社に勤務していたが、芝居好きの会社の同僚の誘いで歌舞伎や新劇を観るようになり〔、本人曰く「同じ貧乏をするなら、自分の好きな道で」とのことで役者を志す。 1933年(昭和8年)9月、友田恭助・田村秋子夫妻らが設立した築地座の研究生募集に応じて入団し、同年『アルトハイデルベルヒ』の通行人の学生役で初舞台を踏む〔。1935年(昭和10年)、久保田万太郎作『釣堀にて』に先輩の中村伸郎の代役として、一言だが初めて台詞のある役で出演する。築地座解散後は、1937年(昭和12年)の文学座結成に杉村春子らと共に参加、1944年(昭和19年)に森本薫作『怒涛』での演技で注目される〔。同年、黒澤明監督の『續姿三四郎』に同じ文学座の森雅之とともに出演して映画デビューする。1945年(昭和20年)5月、石川県小松市に劇団疎開、移動演劇隊に加わって北陸地方を巡演し、旅先で終戦を迎える。 戦後も文学座の主力として舞台に立ち、1949年(昭和24年)には『女の一生』『あきくさばなし』『雲の涯』の演技で第1回毎日演劇賞を受賞する。主に下町ものの作品で頑固だが人情深い職人役などを得意とした。1965年(昭和40年)2月8日に文学座を退団すると、同年5月に東宝演劇部と1年ごとの契約で入り、『霊界様と人間さま』『放浪記』などの東宝現代劇に出演し、堅実な脇役として活躍する〔。 戦後の映画出演は、1946年(昭和21年)の『浦島太郎の後裔』に出たあとしばらく出演がなかった。1948年に立川富美子と結婚。1951年(昭和26年)に木下惠介監督の『善魔』に出演したのを皮切りに、小津安二郎の『麦秋』、黒澤明監督の『生きる』『七人の侍』、木下監督の『楢山節考』、稲垣浩監督の『無法松の一生』、野村芳太郎監督の『張込み』、中村登監督の『古都』、篠田正浩監督の『乾いた花』、山田洋次監督の『男はつらいよ 柴又慕情』など、日本映画を代表する監督の作品に次々と起用される。なかでも、『七人の侍』では痩身で寡黙だが凄腕の剣客・久蔵、『張込み』では執念深い老刑事を演じて好演技を見せた。 1970年(昭和45年)から個人の季刊雑誌『俳優館』を主宰。アマチュア野球の審判としても知られ、後楽園球場や大阪球場で球審を務めたこともある〔宮口精二 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2015年9月20日閲覧〕。 1985年(昭和60年)4月12日23時30分、肺がんのため国立東京第二病院で死去。。1984年(昭和50年)の帝国劇場『桜の園』が最後の舞台となった。 なお、テレンス・マリック監督作品『シン・レッド・ライン』で、渡会伸とともに日本語アドバイザーを務めた宮口トモオ(Tomo Miyaguchi)は実子。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮口精二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|