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宮城与徳 : ウィキペディア日本語版
宮城与徳[みやぎあずかとく]

宮城 与徳正字:宮城 與德、みやぎ よとく、1903年2月10日 - 1943年8月2日)は、日本洋画家左翼運動家、社会運動家。「南龍一」と名乗り、ゾルゲ諜報団に参加した。ソ連スパイとしてゾルゲ事件に関与して逮捕され、拘留先で病死した。
== 生涯 ==

=== 生誕からアメリカ時代まで ===
沖縄県国頭郡名護町東江(現・名護市)に生まれる〔野本、pp.29 - 30〕。父の与正は1904年にはフィリピンで道路工事に従事し〔野本、p.46〕、1905年にはハワイ、さらに1906年には渡米してカリフォルニア州に移住した〔。このため、母方の祖父母に預けられて育つ〔。小学校時代、担任教師の影響で絵に興味を持つ〔野本、pp.34 - 35〕。高等小学校1年生の時に、描いた絵が東京の展覧会に入選した〔野本、p.88。同級生1人も同時に入選している。〕。上級学校に進学する意向があり、宮城自身は美術工芸の専門講義のあった沖縄県立工業徒弟学校(現・沖縄県立沖縄工業高等学校)を希望していたが、学業成績がよかったことから学費不要で「出世コース」とされた沖縄県師範学校を周囲に勧められ、1917年に予科に入学〔野本、p.54、pp.88 - 89。野本は「首里工業学校」と記しているが当時の校名だと沖縄県立工業徒弟学校になる。〕。しかし、結核に罹患したことから本科に進んだ1918年に中途退学した〔野本、p.36〕。
1919年6月、父に呼び寄せられる形で渡米、カリフォルニア州のインペリアルバレーに住む父と兄の元に移る〔野本、p.54、90。3歳年上の兄・与整は1916年に先に渡米していた。〕。カリフォルニアではブローリー公立学校の外国人部に入学する一方、父は息子2人の移住を見届けてから沖縄に帰国している〔野本、pp.54 - 55〕。1920年頃、絵の勉強のためサンフランシスコに出るが、2か月ほどでロサンゼルスに移る〔野本、p.59、91〕。1921年秋、サンフランシスコのカリフォルニア州立美術学校に入学したが、その後サンディエゴの美術学校に、現地に在住する叔父の援助を得て移る〔野本、pp.92 - 93、114。宮城自身はゾルゲ事件時の供述調書で「官立サンディエゴ美術学校」と記しているが、野本一平の調査では当時サンディエゴにあった美術学校は私立のサンディエゴ・アカデミーオブファインアート(1937年閉校)だけしかないという。〕。
これと前後して、1921年にはロサンゼルス在住の沖縄出身青年による「黎明会」というグループの結成に屋部憲伝らと参加〔野本、p.59〕。黎明会は社会的な問題にも関心を示し、保守的な沖縄出身者からは「左翼」「危険分子」とみる向きもあったという〔野本、p.71、73〕。
1925年7月、サンディエゴのホテル経営者の妻で宮城県出身の八巻千代と出奔し、再びロサンゼルスに移る〔野本、pp.109 - 110〕。これはホテルに長期滞在している間に親交を深め、「駆け落ち」したものであった〔野本、pp.112 - 114〕。二人の結婚生活は6年続いたが、千代は1931年に宮城の元を去り別居する形で離婚する(正式に結婚したことはなかった)〔野本、p.133〕。残された宮城は、北林芳三郎・トモ夫妻の家に下宿した〔野本、p.134〕。北林トモは宮城より17歳年上で、年若い宮城の面倒を見る形であった〔野本一平は「19歳年上」と記している(野本、p.134)が、北林は1886年生まれ(加藤2014、p.140)のため、実際には17歳差である。〕。松本清張尾崎秀樹は二人が男女関係にあったと記しているが、加藤哲郎は「事実ではない」と否定し〔加藤、p.152〕、元妻の千代も戦後のインタビューで「(宮城が「ツバメ」のような)そんな関係では絶対なかった」と証言している〔野本、p.136〕。
この間、黎明会周辺の仲間とILD(国際労働者救援会)など複数の会合に関わる。1929年4月、訪米中の伊波普猷がロサンゼルスを訪れた際には、仲間とともに案内した〔野本、p.128〕。また、1931年に竹久夢二がアメリカに滞在した際には一時期起居をともにしていた。画業では1928年に初めてロサンゼルスで個展を開き〔下記外部リンク先(沖縄大学緒方ゼミ)を参照。〕、1930年には日本人画家24人の出展した展示会を取り上げた美術雑誌の記事に言及された(詳細は後述)。
1931年、アメリカ共産党に入党する。ゾルゲ事件時の供述調書によると、前年に訪ねてきた「モスクワ帰りの矢野某」の勧誘によるものとしている。この「矢野某(矢野努)」は、豊田令助(または将月令助)のことで〔加藤2014、p.160〕、豊田は1932年にアメリカ共産党日本人部の全国書記に任命されている〔加藤2014、p.166〕。宮城はアメリカ共産党では目立った活動をしなかった。加藤哲郎によると、当時のアメリカ共産党には労働運動の指導や反戦・反ファシズム活動をおこなう「オモテの顔」と、ソビエト連邦コミンテルンからの要請を受けて地下の国際活動に人員を提供する「ウラの顔」があった〔加藤2014、p.140、pp.154 - 155〕。宮城は「オモテ」の活動にはほとんど関与せず、「ウラ」の要員として引き入れられたと加藤は述べている〔加藤2014、p.160、166〕。
宮城の周辺では、1932年1月15日に労働運動を指導したアメリカ共産党に対する大量検挙(ロングビーチ事件)が起き、100人以上の逮捕者の中には宮城と親交のあった沖縄出身者5名(又吉淳・宮城与三郎(宮城の従兄)、照屋忠盛、山城次郎、島〔袋〕正栄
)が含まれていた〔『沖縄を知る辞典』日外アソシエーツ、2000年(執筆は加藤哲郎)〕〔「島〔袋〕正栄」は、『沖縄を知る辞典』や野本一平の評伝、加藤哲郎の「宮城与徳訪日の周辺」では「島正栄」、『ゾルゲ事件 覆された神話』では「島袋正栄」である〕。彼らを含む日本人9名は「強制退去」ではない自主的な出国(亡命)としてソ連への移住を勝ち取るが〔野平、p.177〕、ソ連国内で大粛清の犠牲となったことが、ソ連崩壊後に確認されている〔〔加藤2014、p.159〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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