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宮城野誠志 : ウィキペディア日本語版
竹葉山真邦[ちくばやま まさくに]

竹葉山 真邦(ちくばやま まさくに、1957年8月21日- )は、福岡県浮羽郡浮羽町(現:同県うきは市、出生地は同県八幡市)出身で、宮城野部屋に所属した大相撲力士。本名は田崎 誠(たざき まこと)。現役時代の体格は176cm、121kg。得意手は突き、押し。最高位は東前頭13枚目(1986年9月場所)。
現在は年寄宮城野として、宮城野部屋で後進の指導に当たっている。
== 来歴・人物 ==
幼い頃から相撲を始め、黒崎中学校では相撲部がなかったため、野球部に所属した。中学2年時に父親の知人から勧誘され、中学卒業と同時に宮城野部屋へ入門し、1973年3月場所にて初土俵を踏んだ。初土俵の同期には、後の関脇高望山らがいる。
当初の四股名は、本名でもある「田崎」だったが、1974年3月場所前に「筑葉山」と改名。これは、故郷・福岡県の旧称のひとつである「筑後」と、師匠の現役名・吉葉山に因んでいる。
小兵ではあったが、立ち合いから強く当たって押し出す相撲を得意として着実に番付を上げ、1978年11月場所にて21歳で十両へ昇進した。
しかし、四つになると力が発揮できないという弱点から、同場所では6勝9敗と負け越して1場所で幕下へ陥落。その後、1983年1月場所で再十両昇進を果たすまで、4年以上幕下に低迷した。
その間、四股名を「筑葉山」から「竹葉山」に変えたが、これは当時の師匠であった9代宮城野(元小結・廣川)の助言による。
稽古熱心で、連日同じ立浪・伊勢ヶ濱連合の友綱部屋に通い詰め、幕内の魁輝との激しい稽古により力を付けた。1984年1月場所での3回目の十両昇進からは十両に定着し、1986年5月場所では自身初となる各段(十両)優勝を遂げ、同年9月場所で漸く入幕を実現した。初土俵から所要81場所での新入幕は歴代10位タイ、新十両昇進から所要47場所での新入幕は歴代1位のスロー記録となった。
その9月場所では6勝9敗と負け越し、十両へ陥落した翌11月場所では10勝5敗の優勝同点となる好成績を挙げて、翌1987年1月場所で再び入幕した。だが、同場所でも5勝10敗と大きく負け越して、幕内在位は結局2場所のみに終わった。
以降も調子が上がらず、1988年5月場所では幕下へ陥落した。以後、2度と関取の地位には復帰できなかった。
1989年1月場所12日目に現役引退を表明し、年寄・中川を襲名して、宮城野部屋の部屋付き親方に就任。
しかし、同年6月に師匠である宮城野親方(元・廣川)が急逝したため〔9代宮城野の死去直前に竹葉山の断髪式が行われたが、9代宮城野は病気療養中のために欠席していた。止め鋏は一門の総帥である6代立浪(元関脇・安念山)が入れた。〕、急遽10代宮城野を襲名して宮城野部屋を継承した。以降、師匠として横綱白鵬や前頭・光法などといった関取を育てた。
2004年7月に北の湖部屋の十両・金親が9代宮城野親方の娘と結婚して娘婿となって、引退し、11代宮城野を襲名して宮城野部屋を継承することとなった。これにより、元・竹葉山の年寄名跡は暫定的な取得であったことが判明し〔10代宮城野襲名時は借株だったという説もあるが、借株では部屋の師匠となることは不可能なので、借株であったとは考え難い。「宮城野」の名跡を暫定的に取得していたと考えられる。〕、10代宮城野は同年9月場所前までに年寄・熊ヶ谷を工面して15代熊ヶ谷を襲名して宮城野部屋の部屋付き親方となった。弟子の光法が引退した際には、部屋付きの親方でありながら断髪式で止め鋏を入れている。
2007年5月場所後に白鵬が横綱昇進した際の横綱審議委員会において、当時の日本相撲協会理事長だった北の湖親方は委員である内館牧子から「白鵬の師匠は誰ですか?」の質問に対して、「今まで熊ヶ谷が(白鵬の指導を)やってきたのだから、今後も熊ヶ谷が指導すべき」と答え、15代熊ヶ谷が白鵬の正式な師匠であることを事実上明らかにした。しかし、白鵬の大関・横綱昇進伝達式の両方に同席することは許されず、陰で見守るしかなかった〔佐渡ヶ嶽部屋琴欧洲琴光喜が大関へ昇進した際には、現・佐渡ヶ嶽親方(元関脇・琴ノ若)と共に先代の佐渡ヶ嶽親方(元横綱・琴櫻)も伝達式に同席した事例が存在し、決してあり得ないことではなかった。〕。
横綱・大関の師匠で理事長・勝負審判でない者はNHK大相撲中継で解説を務める例が多いが、宮城野部屋では11代宮城野に幕内経験がないこともあって、15代熊ヶ谷が向正面解説を務めていた(その際には、「白鵬の育ての親の熊ヶ谷親方」と紹介されていた)。
2007年5月に「11代宮城野が知人の女性に対して『(白鵬が初の綱獲りに挑戦した)2006年7月場所で横綱・朝青龍ら4人に計900万円を支払って白鵬に勝たせるよう依頼した』と語った」という内容の記事を講談社週刊現代』が掲載した問題で、名誉棄損として日本相撲協会が『週刊現代』を訴えた裁判自体は日本相撲協会側が勝訴したものの、日本相撲協会は11代宮城野の言動が協会の品位を傷つけたものであるとして、2010年12月24日の理事会において11代宮城野に対して15代熊ヶ谷と年寄名跡を交換することによって部屋の師匠の座を交代することを勧告した。その後、同年12月27日に11代宮城野が勧告を受け入れたことにより、15代熊ヶ谷は11代宮城野と年寄名跡を交換する形で12代宮城野として再び宮城野部屋の師匠に就任し、11代宮城野は16代熊ヶ谷を襲名して宮城野部屋の部屋付き親方となった。
2012年2月1日に行われた日本相撲協会役員改選に伴う新たなる人事で、審判部副部長に昇格した18代朝日山親方(元大関・大受)に代わって新たに審判委員として選任され、2013年2月4日に行われた職務分掌で審判部を離れるまで勝負審判を務めた。2014年9月場所では同じ伊勢ヶ濱一門の勝負審判であった追手風親方(元前頭2・大翔山)が体調不良で休場したため、5日目から審判経験のある宮城野が代役を務めた〔 スポーツ報知 2014年9月17日18時5分〕。
なお、10代宮城野襲名時には9代宮城野の年寄名を、そのまま継承していた。12代宮城野再襲名以降は、下の名を15代熊ヶ谷時代と同じものとして「宮城野 誠志(-せいじ)」と名乗っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「竹葉山真邦」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Chikubayama Masakuni 」があります。



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