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宮城電鉄 : ウィキペディア日本語版
宮城電気鉄道[みやぎでんきてつどう]

宮城電気鉄道(みやぎでんきてつどう)は、かつて宮城県に存在した鉄道事業者である。略称は宮電1922年大正11年)に設立され、現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)仙石線にあたる路線を1925年(大正14年)から順次開通させたが、1944年昭和19年)に戦時買収私鉄に指定され国有化された。
== 沿革 ==

=== 発足までの経緯 ===
1914年7月28日ヨーロッパを主戦場とする第一次世界大戦が始まると、日本は一時的な不景気になったものの、1915年大正4年)下半期から商品輸出により「大戦景気」と呼ばれる好景気となった。同1915年、東京府(現・東京都)の高田商会宮城県栗原郡鶯沢村(現・栗原市)に所有していた高田鉱山(細倉鉱山)〔細倉鉱山は、1898年(明治31年)から1928年(昭和3年)まで高田鉱山と呼ばれた。1987年(昭和62年)閉山。1990年(平成2年)以降は細倉マインパーク()となっている。〕〔沿革 (細倉金属鉱業)〕では、軍用需要の高まりをみせていた亜鉛電気分解に山本豊次所長が成功し〔(経済産業省)〕、翌1916年(大正5年)には、猪苗代第一発電所〔1912年(明治45年)建設開始、1914年(大正3年)10月運転開始。当時の出力は37,000kW。現在は、東京電力猪苗代第一発電所()となっている。〕〔東京電力の水力発電所一覧(福島県)(平成19年7月現在) (東京電力)〕〔わたしたちのきょう土 磐梯町 -106/116page (磐梯町教育委員会)〕および建設中(当時)の猪苗代第二発電所〔1914年(大正3年)建設開始、1918年(大正7年)6月運転開始。現在は、東京電力猪苗代第二発電所()となっている。〕〔(両発電所とも水力発電)に隣接する福島県耶麻郡磐梯村(現・磐梯町)に設置した高田商会大寺精錬所〔1928年9月に日本曹達と合併し、現在は日本曹達の100%子会社である日曹金属化学の会津工場()となっている。〕〔会社概要 (日曹金属化学)〕〔(京都大学)〕にて亜鉛の湿式精錬を開始した〔〔(福島大学)〕。同鉱山の亜鉛生産は1917年(大正6年)および1918年(大正7年)に最盛期を迎えたため同商会は、亜鉛輸送を目的に同鉱山から東北本線・石越駅までを結ぶ栗原軌道(くりはら田園鉄道)を設立した〔。また、1918年(大正7年)に猪苗代から東京府東京市(現・東京都)まで高圧送電線が完成し〔、帝都の電力需要をまかなうことになったため、同商会は代わりに同鉱山近くの江合水電との間で発電開始後10年間の電力買取契約をした〔(東北大学鉄道研究会)〕。しかし、1918年11月11日に第一次世界大戦が終結すると亜鉛の需要は激減、その一方で1919年(大正8年)に江合水電からの電力供給体制が整ってしまう〔。
大量の余剰電力を抱え込むことになった同商会の高田釜吉や山本らは、仙台 - 松島間の高規格電気鉄道路線敷設を行うことを発案した。仙台から日本三景松島へは、日本鉄道本線(1909年東北本線に改称)の開通により1887年明治20年)に初代の塩竈駅〔後の塩釜線塩釜埠頭駅()〕が、1890年明治23年)に初代の松島駅〔初代の松島駅の位置()〕が開業していたが、松島観光の中心地の五大堂瑞巌寺からは両駅とも離れていた。国有鉄道の運営と私設鉄道の監督を当時行っていた鉄道省では、仙台から塩竈辺りまで東北本線と並行する計画に当初難色を示したと言われているが、結局は免許を交付した。それによって1922年(大正11年)に設立されたのが宮城電気鉄道であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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