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宮崎信義 : ウィキペディア日本語版
宮崎信義[みやざき のぶよし]
宮崎 信義(みやざき のぶよし 1912年2月24日 - 2009年1月2日)は、日本歌人口語自由律短歌(いわゆる新短歌)の隆盛に努めた。短歌雑誌「未来山脈」代表。京都歌人協会委員長。新短歌人連盟会長。現代歌人協会会員。
==略歴==
滋賀県坂田郡息長村箕浦(現在の米原市)、米原駅近くの母の生家で生まれる。2歳の時に、警察官だった父を殉職で失う。その後、教職についた母に育てられる。
昭和6年、県立彦根中学校(現在の滋賀県立彦根東高等学校)時代、歌人の平井乙磨の薦めで前田夕暮の「詩歌」の会員となり、矢代東村の選で「詩歌」に初めて短歌5首が掲載された。横浜の旧制横浜専門学校(現在の神奈川大学)に進学するため関東に移り、中野嘉一香川進らと出会う。新宿の中村屋で開かれていた「詩歌」の歌会に出席し、また、夕暮の自宅を訪問するなど、積極的に活動する。
卒業後、大阪鉄道局に就職。「詩歌」を退会し、石原純の「立像」に作品を寄稿する傍ら、逗子八郎の「短歌と方法」の同人となり、西洋文化を取り入れた新たな秩序を求める歌論の発表を続けた。
昭和14年、結婚し、一男二女をもうける。昭和18年、召集され、中国に出征。戦場での過酷な体験は、第二歌集『夏雲』に克明に詠み込まれた。昭和21年に復員。昭和24年2月、日本全国に散らばった自由律歌人に呼びかけ、「新短歌」を創刊、京都で編集発行を続けた。
鉄道人としては日本国有鉄道に奉職し、神戸駅長を最後に退く。その後は70歳まで、京都駅観光デパート、大阪中井産業株式会社の役員を務めた。歌人としては96年の生涯を、ぶれることなく口語自由律短歌一筋に捧げた「中興の祖」と評価される〔光本恵子 『宮崎信義のうた百首』 短歌研究社、1999年、2-7p。〕。
平成21年1月2日、食道癌のため自宅にて死去〔「宮崎信義略歴」『いのち』 短歌研究社、2010年、83p。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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