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宮崎八郎[みやざき はちろう] 宮崎 八郎(みやざき はちろう、1851年(嘉永4年)- 1877年(明治10年)4月6日)は熊本県出身の自由民権運動家。中江兆民の仏学塾に学び、「九州のルソー」と呼ばれた〔松岡正剛の千夜千冊、1168夜、2006年12月30日〕。西南戦争で西郷隆盛を支援し、26歳にして志半ばで戦死した。
== 生涯 == 肥後国玉名郡荒尾村(現熊本県荒尾市)の郷士・宮崎政賢(宮崎長兵衛/長蔵)・佐喜夫妻の次男として生まれる。弟に宮崎民蔵、宮崎彌蔵、宮崎滔天がいた。父には山東家伝二天一流を弟たちとともに習っている。1864年(元治元年)元服し長州征伐に父とともに従軍する。時習館に通う。1870年(明治3年)上京。1874年(明治7年)『征韓之議』を提出する。 ルソーの『社会契約論』の部分訳である中江兆民の『民約論』に影響を受ける。1875年(明治8年)4月26日、熊本県植木町に植木学校(校長は平川惟一、八郎は学務委員)を設立。自由民権運動のため県からの補助金を打ち切られ10月末で閉校する。東京の評論新聞社に入社。1877年(明治10年)、鹿児島県で西郷隆盛の私学校が西南戦争をおこすと、民権家同士と熊本協同隊を結成し2月21日に川尻で薩摩軍に合流、桐野利秋のもと共に政府軍を相手に戦う。4月6日、熊本県八代市萩原堤で戦死。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮崎八郎」の詳細全文を読む
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