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宮崎 勤 (宮﨑 勤)(みやざき つとむ、1962年8月21日 - 2008年6月17日)は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕・起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。 == 生い立ち == ; 幼少期 : 東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として出生〔一橋(2003)、pp.61-62〕。両親は共働きで忙しかったため、産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている〔一橋(2003)、p.164〕。幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていた〔一橋(2003)、p.166〕。宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士であった〔一橋(2003)、p.62〕。家族は祖父、祖母、両親、妹二人の7人〔。祖父は引っ込み思案な勤を連れて歩き、可愛がっていた〔一橋(2003)、pp.130-131〕。 : 幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」(りょうがわせんてんせいとうしゃくこつゆごうしょう)〔肩・肘の外傷と疾患 先天性橈尺骨癒合症 〕という、当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があったが、医者から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われ、両親は「勤は幼い時から掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたとされる。4歳の時に手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と、積極的な治療を受けさせなかった〔一橋(2003)、pp.64, 87-88〕。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため「非常に辛かった」と供述している〔一橋(2003)、pp.66-68〕。 ; 小学校時代 : 小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった〔一橋(2003)、p.70〕。成績は上位であって、小学校の頃から算数(数学)が得意と語っており、また宮崎の母が「うちの子は英語が得意なの」と自慢しており、英数の成績は良かった〔一橋(2003)、p.76〕。しかし、その一方で国語と社会科を苦手としていた〔。 ; 中学校時代 : 中学生時代は1、2年生の時には陸上部、3年生の時には将棋部に所属し、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着した〔一橋(2003)、p.75〕。また通信教育で空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった〔。 ; 高校時代 : 1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学するが、両親は”英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した”と勘違いしていた。同級生は、暗く目立たない少年だった、と証言している。高校時代は成績が徐々に落ち、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績で、その希望は果たせなかった。 ; 短期大学時代 : 高校卒業後の1981年4月、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学〔一橋(2003)、p.100〕。この頃はパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった〔一橋(2003)、p.101〕。1982年の短期大学在学中にNHKのトーク番組『YOU』のスタジオ収録に友人とともに出かけているが、アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、他の出演者に隠れて、インタビューを受けることはなかった〔一橋(2003)、p.102〕。 : 俳優の川崎麻世は短大の同級生であるが、宮崎の逮捕時のインタビューでは「僕は記憶力が良い方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」というほど影が薄い存在であった〔一橋(2003)、pp.100-101〕。 ; 印刷会社に就職 : 1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務〔一橋(2003)、pp.109-110〕。勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった〔一橋(2003)、p.110〕。1986年3月に勤めていた印刷会社の上司から神奈川県への転勤を勧められたが本人が拒否した為自己都合退職(実質的には解雇)する。〔一橋(2003)、p.112〕。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数ヶ月続いた〔一橋(2003)、pp.112-113〕。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いであった〔一橋(2003)、p.113〕。 : この頃アニメの同人誌を発行するが、仲間から嫌われ、1回だけの発行で終わっている。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換、収集するようになるが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなかった〔一橋(2003)、pp.119,340〕。ビデオサークルでは、他の会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていた〔一橋(2003)、pp.345-346〕。逮捕後の家宅捜索では6000本近くのビデオテープを所有していたことが判明する〔一橋(2003)、p.331〕。 : 1988年5月16日、祖父が死去〔一橋(2003)、p.175〕。8月22日に第一の犯行を起こす〔一橋(2003)、p.9〕。1989年3月には晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品している〔一橋(2003)、p.348〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮崎勤」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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