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宮崎学 : ウィキペディア日本語版
宮崎学[みやざき まなぶ]

宮崎 学(みやざき まなぶ、1945年10月25日 - )は、日本評論家ノンフィクション作家小説家京都府京都市伏見区深草福稲高松町生まれ〔。
1996年10月、南風社より、自らの経歴を記した『突破者』を発表し、小版元からの出版で、広告宣伝をしなかったが〔『反・市民講座』リトルモア2000p44参照〕、1997年夏時点で15万部を出版する〔『反・市民講座』リトルモア2000p22宮崎学インタビュー参照〕。以来「元アウトローの作家(文化人)」ではなく「作家の看板をあげたアウトロー」の「生活者」と称する〔『近代の奈落』幻冬社p478参照〕。2005年には英語版『TOPPA MONO』も翻訳出版された。
==来歴==

===生い立ち、家系===
京都・伏見のヤクザ寺村組の初代組長を父に、大阪・釜ヶ崎博徒の娘を母に持った、4人きょうだいの末子である〔。父の宮崎清親(旧姓・寺村)は京都府の南端、木津川沿いの綴喜郡井手村(いまの井手町玉水)の貧しい農家の次男坊であり〔『ヤクザと日本―近代の無頼』に「(父は)貧しい農家の次男坊であり…」とある〕、10代の初めに京都に出てきた〔。戦後になってから中島源之介の中島会(のちに中島連合会)と正式に関わりをもってをうけ、ヤクザの世界に加わる〔『ヤクザと日本―近代の無頼』62-63頁〕。父は博徒であったが、その一方でや土方を数十人抱える解体屋寺村組の親方でもあった〔。宮崎が物心ついた頃には、父は30~40人の組員を抱えていた〔宮崎学『突破者〔上〕―戦後史の陰を駆け抜けた50年―』 〕。
母もヤクザの血を引いていた〔。母は元来、和歌山県の貧農の出であるが、父親が大阪の萩ノ茶屋に出てヤクザ渡世を送ったために釜ヶ崎周辺のスラムで生まれ育った〔。宮崎は祖父には、一度も会ったことがない〔。うだつの上がらない極道だったようで、母の姉3人は身売りされたり、子供の頃から働かされたりの、お定まりの極貧ぶりだった〔。母も、当時のスラムの花形産業であったマッチづくりの仕事に5、6歳の頃から追われ、尋常小学校にも通えなかった〔。それでも親の目を盗んで時折学校に行き、窓の外から同級生の授業を聞いていたという〔。読み書きは独学だった〔。父方、母方とも、社会の底辺に蠢く家系であった〔。
宮崎本人は被差別部落の生まれではないが、著書『近代の奈落』(2002年解放出版社・解放同盟の機関誌『部落解放』に当時連載された)で、父が「京都府綴喜郡井手町被差別部落の出身で、スリ頭目だった」という父の知人の証言を紹介〔『近代の奈落』幻冬舎アウトロー文庫pp450-451〕。以来、自らを部落民と規定している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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