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宮崎恭子[みやざききょうこ]
宮崎 恭子(みやざき やすこ、1931年5月15日 - 1996年6月27日)は、日本の演出家、女優、脚本家。無名塾創設者。本名・仲代 恭子(旧姓・宮崎)。脚本家としての筆名(別名)として隆 巴(りゅう ともえ)を持つ。夫は俳優の仲代達矢、妹は元フジテレビアナウンサーでニュースキャスターの宮崎総子。 ==来歴・人物== 両親とも広島県呉市の出身〔特集 生産者と消費者の架け橋を築く女性たちの役割 - インタビュー宮崎 総子さん 農業協同組合新聞 〕〔宮崎恭子『大切な人』、1996年、講談社、52、53、67、87、134-171頁〕〔高橋豊『幻を追って 仲代達矢の役者半世紀』1998年、毎日新聞社、34-38頁〕。母方の祖父は第九代呉市長・勝田登一〔『大切な人』、68頁〕。裁判官だった父親の赴任先・長崎県長崎市で生まれ、父親の転任により、4歳まで長崎で、その後小学校二年生まで福岡市で、三年生のとき大分市で、四年生から小学校卒業まで再び福岡市で育った〔〔『大切な人』、100-111頁〕。1944年、父親が裁判所を辞め弁護士に転身したため、一家で東京に移る〔〔〔宮崎総子『宮崎総子のわが家の食卓』、2007年、角川学芸出版、53、141、142、155頁、中国新聞、2007年2月1日、11面〕。1945年の東京大空襲で、父を東京に残し、母・妹とともに呉の伯父宅に疎開〔〔〔『大切な人』、134-171頁〕〔2011年06月のブログ|仲代奈緒オフィシャルブログ「ココロの部屋 〕。同年8月、広島原爆を見る〔『幻を追って 仲代達矢の役者半世紀』16、38頁〕。同年9月17日の枕崎台風による呉の大洪水で、実家が土石流に流され怪我を負うが生き延びる〔。この年の暮れ、母・妹とともに東京に戻った〔。 女子学院卒業後、1950年に俳優座養成所に入る。卒業後は、同期の小沢昭一らと劇団新人会を結成。女優として活躍する。 1957年に、俳優座養成所の後輩だった仲代達矢と舞台の共演をきっかけに結婚。以後は、脚本家に転じ、舞台演出も手がけた。1975年に夫とともに俳優を育成する無名塾を主宰した。イプセン作の『ソルネス』の演出で1980年度芸術祭優秀賞受賞。 1995年夏の無名塾の全国公演中に体調不良を訴え、膵臓がんと判明。1996年6月27日に死去した。。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮崎恭子」の詳細全文を読む
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