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宮崎 智彦(みやざき ともひこ、1986年11月21日 - )は、東京都西東京市出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー(左サイドバック)又はミッドフィールダー(左ウイングバック、左サイドハーフ〔 スポーツ報知 (2013年10月3日)〕、ボランチ)。Jリーグ・ジュビロ磐田所属。 == 来歴 == 5歳からサッカーを始める〔磐田DF宮崎「練習の集大成見せる」 日刊スポーツ (2012年1月26日)〕。高校時代はFC東京U-18に所属。同期には染谷悠太、福田建らがいた。 2005年、流通経済大学へ進学。精度の高いクロス、1対1に強い守備を武器に1年からレギュラーに定着し、2度の関東大学リーグ、1度の総理大臣杯優勝に貢献。関東大学リーグでは藤井賢心(東京農業大学)と共に4年間で最も出場が多かった選手として表彰された〔 関東大学サッカー連盟 2008.11.23〕。「大学No.1左サイドバック」として〔大学ナンバーワン左SB・宮崎が鹿島入り スポーツニッポン 2008.09.05〕古巣のFC東京を始め複数チームから獲得オファーを受けた〔 スポーツ報知 (2008年9月5日)〕。 2008年9月、「レギュラーを獲るのが一番難しいクラブ」ということから、翌2009年の鹿島アントラーズ入団を決めた〔 鹿島アントラーズ (2008年9月5日)〕。2010年のJ1第20節C大阪戦で先発出場しプロデビュー。高評価を得るも〔【J1:第20節 鹿島 vs C大阪】オズワルドオリヴェイラ監督(鹿島)記者会見コメント (archive ) J's GOAL (2010年8月21日)〕レギュラー奪取には至らなかった。 2011年に横浜FCへ期限付き移籍〔宮崎 智彦選手が横浜FCに期限付き移籍 鹿島アントラーズ (2011年1月5日)〕。MF野崎陽介と左サイドで好連携を築き、DFながら攻撃面でも大きく貢献〔J2 8月度 J'sGOAL月間MIP (archive ) J's GOAL (2011年9月12日)〕〔【J2 8月度MIP受賞インタビュー】野崎陽介選手(横浜FC) (archive ) J's GOAL (2011年10月14日)〕。J2第4節北九州戦でJリーグでの初得点を挙げた。 2012年にはジュビロ磐田へ期限付き移籍〔宮崎 智彦選手がジュビロ磐田に期限付き移籍 鹿島アントラーズ (2011年12月28日)〕〔宮崎智彦選手鹿島アントラーズより期限付き移籍加入のお知らせ ジュビロ磐田 (2011年12月28日)〕。負傷離脱した時期もあったが、果敢な攻撃参加を武器に左SBのレギュラーを確保した〔磐田 宮崎、菅沼駿を完全移籍 日刊スポーツ (2012年12月16日)〕。2013年より磐田へ完全移籍〔宮崎 智彦選手がジュビロ磐田に完全移籍 鹿島アントラーズ (2013年1月8日)〕〔宮崎智彦選手鹿島アントラーズより完全移籍加入 ジュビロ磐田 (2013年1月8日)〕。シーズン序盤は3バックの新布陣に適合しきれず〔【Jリーグ】名波浩が指摘する、最下位ジュビロの問題点 集英社 (2013年4月22日)〕出場機会を減らすも〔磐田宮崎クロス、エース前田に上げる 日刊スポーツ (2013年4月18日)〕、4バックに立ち返って以降は山本脩斗らとのポジション争い〔磐田宮崎、基本の徹底へ手応え 日刊スポーツ (2013年6月22日)〕を制した。シーズン終盤は内転筋を痛め欠場し、宮崎不在の間にチームはJ2降格を喫した〔 スポーツ報知 (2013年12月1日)〕。 2014年はSB及びWBで先発出場を続けていたが、同年9月に就任した名波浩監督によって「中学以来」と語る〔磐田宮崎ボランチ抜てき「中学以来」 日刊スポーツ (2014年10月3日)〕ボランチに配され〔 スポーツ報知 (2014年10月8日)〕第35節からフル出場。2015年もボランチを定位置とし、巧みな配球と位置取りで味方を活かす攻守の要として活躍を続けた。勝てばJ1昇格が決まる大分トリニータ戦では、後半45分に同点にされた直後に自陣のゴールからボールをかき出し、センターサークルへ置いた。それを見て気合を入れ直した小林祐希が失点してすぐに決勝ゴールを奪った〔 日刊スポーツ 2015.11.24〕。その宮崎の行動は、監督の名波浩が試合終了後のロッカールームで褒めているシーンが『ジュビロTVプラス』で流れている。 ボランチでの出場も多くなり、2016年はMF登録となった。2月25日に一般女性と入籍〔宮崎 智彦選手 入籍のお知らせ ジュビロ磐田 (2016年3月15日)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮崎智彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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