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宮崎神宮の大祭(みやざきじんぐうのたいさい)は10月26日に催行され、例祭後最初の土曜日・日曜日に御神幸祭が宮崎市内で行われる。 特に御神幸行列と神賑行列から成る御神幸祭は神武さま(祭神の神武天皇の意)と称され〔『宮崎県大百科事典』(宮崎日日新聞社編、1983年)では「神武さま」として宮崎神宮の大祭が解説されている。〕、宮崎県下最大の祭事として親しまれている。御神幸祭は五穀豊穣を祝う目的も兼ねる。 現在の主催は宮崎神宮御神幸祭奉賛会(宮崎商工会議所)。御神幸祭の観客数は2日間で約15万5,000人(主催者発表、2008年)〔「神武さま」旅終える 宮崎市 宮崎日日新聞、2008年11月3日。〕。英語表記は(2008年の場合)Miyazaki Shrine Grand Festival in 2008となる。 == 歴史 == === 黎明期 === 起源は資料が散逸しており定かではないが、1785年(天明4年)の吉田家への「調書草稿」には御神幸祭の記述がある〔『養正』第130号2頁。〕。また、1876年から残る宮崎神宮の日誌にも御神幸祭が行われていた記述があり、主催者側では1876年を宮崎神宮大祭が始まった年としている〔『神武さま まるわかりガイド』1頁。〕。当時は宮崎神宮周辺を練り歩くもので現在ほど盛大なものではなかった。 1880年1月4日に現在の宮崎市中村町の氏子が「渡御の儀の願い」を提出し、旧暦の3月15日から4月9日までの25日にわたって中村町に御駐輦(神輿が滞在すること)するようになった。このときに御鳳輦(ごほうれん、神輿のこと)が大淀川を越える〔宮崎神宮は大淀川の左岸(北)、中村町は右岸(南)に位置する。〕ようになった。 1909年に御鳳輦が新調されたのをきっかけに現行のように隊列を組むようになる。規模拡大の背景として宮崎神宮は「境内整備による住民の意識昂揚」を挙げている〔『養正』第130号3頁。〕。大正から戦前までの「神武さま」は26日例祭・27日お旅所御駐輦(中村〔宮交シティ付近。〕)、28日お旅所御駐輦(瀬頭〔大淀大橋の北側(大淀川左岸)にある地区。現在の県道341号沿い。〕)、29日御還幸と4日間の日程であり、数度の中止(皇族の崩御に伴うもの)を除いて1943年まで続けられた。1940年は紀元2600年(紀元二千六百年記念行事も参照)ということもあり盛大に催行されたものの、戦局の悪化に伴い1944年には神輿渡御が1日に短縮。1945年は例祭のみ挙行され御神幸祭は中止となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮崎神宮大祭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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