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宮崎龍介[みやざき りゅうすけ]
宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ、1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日)は、大正・昭和期の編集者・弁護士・社会運動家。孫文の盟友の宮崎滔天の長男。母は前田案山子の三女・槌子。有夫であった歌人・柳原白蓮と駆け落ちした白蓮事件で知られる。竜介とも。 == 経歴 ==
=== 生い立ち === 熊本県玉名郡荒尾村(現在の荒尾市)で宮崎滔天・槌子夫妻の長男として生まれた。父の滔天は革命運動に打ち込んで家庭を顧みないため、お嬢様育ちであった母・槌子が慣れない石灰販売などで必死で働いて子供達を育てた。槌子は、自由民権運動の闘志であった前田案山子の子として育ったことから、夫の滔天の思想や活動にも理解があり協力的だった〔。夏目漱石『草枕』のモデルとなった前田卓の妹でもある〔。龍介は弟と共に母の実家・前田家の伯父宅に預けられて八久保小学校と伊倉高等小学校に通うが〔熊本県玉名市「漱石・草枕の里」〕、そこも裕福ではなく、追い立てられるように出る事になる。母の実家の前田家は地元随一の素封家だったが、案山子の政治活動や親兄弟の諍いにより衰退し、1901年(明治34年)には本家が焼失、1904年(明治37年)には案山子が亡くなり一家離散した〔道中編 熊本県玉名市「漱石・草枕の里」〕。 その後南関の分教場に寄宿し、1人になる時間には図書館の本を片っ端から全部読み、その経験が学問の基礎を作った。滔天の活動費のため先祖伝来の田畑も売り払い、一家はさらに困窮して郷里に居られなくなり、槌子は荒尾の家をたたんで1905年(明治38年)正月に子供達と共に上京し、東京府・番衆町の滔天宅で暮らすようになる。同年4月に旧制郁文館中学に入学。家族は一緒になったものの、相変わらず生活は苦しく、住まいを転々とするなどした。龍介は新聞配達をしたいと申し出るが、槌子は学校でしっかり勉強するように言い、子供を働かせる事はしなかった。宮崎家に出入りする滔天の盟友・孫文や黄興とは子供の頃から親しみ、時にはスパイに狙われる孫文を槌子が家から逃れさせ、高校生の龍介が付き添った事もあった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮崎龍介」の詳細全文を読む
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