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宮崎 駿児(みやざき しゅんじ、1851年(嘉永3年) - 没年不明)は幕臣、大陸浪人。 == 経歴 == 父は静岡藩出身の旗本寄合の医師・宮崎立元。 芝三田同朋町に生まれ、弘前藩士・対馬嘉三郎が証人となり、明治4年(1871年)7月3日に慶應義塾に入学。卒業後、大蔵省嘱託等を経て文部省で教科書の翻訳活動に当たる。1880年(明治13年)に発足した「興亜会」に佐藤暢と共に幹事として就任。広報誌『興亜公報』の編集人となる。 続いて外務省に移り、廈門領事館書紀見習に就任。1886年(明治19年)には明善中学の教師となり、権藤成卿を伴い支那へ渡る。支那保全論を主張し、東亜同文会の発足にも参加した他、翻訳者として張滋昉などとの共著や著書も多い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮崎駿児」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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