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宮川房長[みやがわ ふさなが] 宮川 房長(みやがわ ふさなが、生年不詳 - 天文23年9月30日(1554年10月26日))は戦国時代の武将。陶隆房家臣、大内義隆の陪臣。父は宮川興房。子に宮川弥平左衛門。通称は左馬助。甲斐守。 == 生涯 == 大内家臣陶氏の家臣、宮川興房の子として生まれる。周防国玖珂郡高森城主となって、周防国東部の山代地域を支配していた。 大寧寺の変の後、1554年に毛利氏も陶氏に叛旗を翻すと、3000余(7000説もある)の兵を率いて安芸国西部で桜尾城の近くの折敷畑山に陣を敷き、毛利氏の動向を見定めようとした。しかし機先を制した毛利元就の奇襲包囲攻撃によって宮川軍は敗北、房長も逃走途中に自害した(折敷畑の戦い)。 この敗戦により、兵力の再編の必要に迫られた陶氏は早期の安芸侵攻を諦めた。その結果、毛利氏は安芸国内の陶側の勢力を討伐する余裕を得て、来る厳島の戦いに向けて、後方の憂いをなくすことに成功した。後、房長の孫・平三郎は吉川元春に仕えた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮川房長」の詳細全文を読む
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