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宮床伊達氏 : ウィキペディア日本語版
田手氏[たで]
田手氏(たで)は、陸奥国大名伊達氏の庶流。はじめ伊達崎氏を称し、江戸時代には伊達姓を拝領して仙台藩の一門に列した(一門第七席・宮床伊達氏)。
== 概要 ==
奥州合戦での軍功により陸奥国伊達郡などを与えられた伊達氏初代当主伊達朝宗の六男・実綱が、伊達郡伊達崎(だんざき)に拠って伊達崎氏を名乗ったが、のちに伊達宗家と紛らわしいので、田手氏を名乗るようになったという。寛政4年(1792年)成立の『伊達世臣家譜』では「実綱より三郎実烈に至るまで、世数詳らかならず」としており、伊達崎から田手へ名乗りを改めた時期も確認できない。
一方で大正13年(1924年)の『宮城県黒川郡誌』には「一門宮床邑主伊達氏略系」として
:伊達崎実綱-実烈-小山朝政-朝良-長村-時長-朝光-宗朝-田手宗長-宗頼-宗行-宗政-宗光
と、実綱から宗光に至るまで14代と記しているが、伊達崎実烈を小山政光に相当させ、小山朝政を朝宗の曾孫とするなど、その内容は著しく整合性を欠いている〔『宮城県黒川郡誌』405~406頁〕。
田手氏の活動が史料上から明確になるのは戦国時代に入ってからで、伊達稙宗永正15年(1512年)10月4日に田手侍者丸(実烈)に、大永5年(1525年)11月11日に田手石見大方(実烈母か)に対して買地安堵状を発給しており、これらの安堵状からは田手氏が伊具郡内の在地中小武士の土地を買得して吸収し、所領を拡げていたことがうかがえる。
天文11年(1542年)に勃発した天文の乱で、実烈は伊達晴宗方に属して戦い、戦後の論功行賞において伊具荘惣成敗に任ぜられたので、角田城を築いて本拠を伊具郡へと移したが、実烈の跡を継いだ子の宗光は、永禄7年(1564年)に晴宗の跡を継いだ伊達輝宗と対立し、相馬氏と通じて反抗したため角田城を逐われた。しかし、宗光の子・宗時は父に同調せず輝宗への忠誠を表明していたため、輝宗は宗時に所領の相続を認め、田手氏への処分も家格を一家から一族へ降格させるのみに止めた。田手氏は宗時の子・宗実の代の天正19年(1591年)に伊達政宗岩出山城へ転封された際に、角田から柴田郡小泉へと移された。
慶長18年(1613年)、政宗は七男・宗高を宗実の養嗣子として送り込み、田手氏の名跡を譲渡させた。宗高は伊達姓の名乗りを許され、柴田郡村田城にて30,000石を拝領する(村田伊達氏)。この時、宗実ら元々の田手氏は小泉氏を称することになったが、宗高は寛永3年(1626年)に20歳の若さで急逝して村田伊達氏が断絶したため、宗実の子・高実が田手氏に復したのをはじめ、分家も再び田手氏を称するようになった。
慶安元年(1648年)に高実が死去すると、田手氏の家督は実子の貞実ではなく、伊達忠宗の八男・宗房が高実の娘婿となって継いだが、万治2年(1659年)8月28日に貞実が元服すると、宗房は貞実に田手氏の名跡を譲り、自らは兄・伊達綱宗から伊達姓を拝領して別家を興した(宮床伊達氏)。
貞実は寛文5年(1665年)6月16日に跡取りを残さず死去し、宗房と正室・田手氏との間にも子が生まれなかったため(宗房の子は二人共に継室・片倉氏が産んだ子である)、ここに田手氏宗家は断絶した。なお、田手氏の分家(『伊達世臣家譜』では「田手家の族臣」と記される。宗家との分岐点は不詳)は、村田伊達氏の断絶後に仙台本藩の直臣に編入された田手実次(112石)・田手実元(106石)らの家系が存続している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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