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宮本 三木之助(みやもと みきのすけ、慶長9年(1604年) - 寛永3年5月14日(1626年7月7日))は、江戸時代初期の武士。剣豪宮本武蔵の最初の養子である。 == 経歴 == 水野勝成の武者奉行・中川志摩之助の三男。先祖は伊勢国中川原城主。出自をめぐっては他にもいくつかの伝承がある(#出自に関する伝承)。 宮本武蔵が大坂夏の陣に水野勝成(三河刈谷3万石)の客将としてその子・勝重(水野勝俊)付で出陣したのが縁となり、大坂の陣後に弟の九郎太郎とともに武蔵の養子となる。元和3年から4年(1617年から1618年)頃、武蔵の推挙により播州姫路城主・本多忠政の嫡男本多忠刻の小姓として出仕する。 忠刻は自らも徳川家康の血を引き(曾孫)、家康の孫・千姫を室に迎えており、征夷大将軍徳川家光の義兄として将来を嘱望されながら、寛永3年(1626年)に31歳の若さで病死。側近であった三木之助は忠刻の初七日に書写山圓教寺の忠刻墓前で切腹による殉死した。享年23。墓は忠刻(園泰院)の墓塔(五輪塔)のすぐ後ろに建てられた。正面の戒名は風化して読めず、右側面に「平八供 宮本三木之助」と刻まれている(平八とは忠刻の通称)。 なお、三木之助の五輪墓の後ろには、三木之助を介錯し殉死した家来の宮田覚兵衛の五輪墓(「三木之助供」と刻まれている)が建てられており、めずらしい墓形である。忠刻にはもう1人、岩原牛之助が殉死、墓は三木之助と並んでいる。 圓教寺の墓誌 : 宮本三木之助 宮本武藏ノ養子 : 忠刻卒スルト墓前ニ於テ切腹 伊勢ノ生レデ武藏ノ養子 当時二十三 : 其辞世ニ : 思わずも雲井のよそに隔りしえにしあればや供に行く道 : 立田山峯の紅葉に誘われて谷の紅葉も今ぞ散りたり 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮本三木之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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