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宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件 : ウィキペディア日本語版 | 宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件[みやざわひろゆき れーんふさい ぐんきほごほういはんいはんえんざいじけん] 宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件(みやざわひろゆき・レーンふさい ぐんきほごほういはんいはんえんざいじけん)は、1941年に発生した軍機保護法違反罪の冤罪事件。宮澤・レーン事件と通称される。 == 概要 == 宮澤弘幸(1919年、東京府代々幡町代々木初台生まれ)は北海道帝国大学工学部電気工学科の学生であったが、1941年12月8日、太平洋戦争の開戦をラジオで知ると、同学のアメリカ人英語教師であるハロルド・レーン、ポーリン・レーン夫妻宅に駆けつけた。その際に偶然眼にした根室第一飛行場のことを夫妻に対して話したとの廉で、またレーン夫妻はこの伝聞を駐日アメリカ大使館駐在武官に伝えたとの廉で、事前に張り込んでいた特高警察によりそれぞれ敵国のスパイとして逮捕された。 1942年12月16日(宮澤)・同月14日・21日(レーン夫妻)に1審の札幌地方裁判所で軍機保護法違反の罪に当たるとして宮澤とハロルドに懲役15年、ポーリンに懲役12年の有罪判決を受け、1943年5月5日~6月11日に大審院でいずれも上告棄却判決を受けた。 なお当該飛行場の存在は事件前に報道されており公知の事実であった。宮澤は逮捕後、特高警察によって拷問と取調べを受けた。宮澤は北大が学生を勤労奉仕として送り込んだ樺太の「工事隊」にも参加しており、一審判決ではこれも「大日本帝国の軍事機密の探知」と認定した。 宮澤は網走刑務所・宮城刑務所に服役し、栄養失調と結核を患った。終戦後の1945年10月10日に釈放されたものの、1947年2月22日に結核がもとで死去した(27歳没)。レーン夫妻は1943年9月に交換船で帰米し、終戦後の1951年に北大に復帰した(ハロルドは1963年、ポーリンは1966年に札幌で死去)。
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