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宮畑 虎彦(みやはた とらひこ、1903年1月23日-1988年)は日本の男子競泳選手。高知県四万十市下田出身。 1924年のパリオリンピックに出場し、男子4×200m自由形リレーにおいては小野田一雄、野田一雄、高石勝男とともに4位になっている。100m自由形にも出場しているが、1次予選で3位に入り敗退している。1928年のアムステルダムオリンピックには役員として選手団に同行した。 == 経歴 == *大正11年 高知師範学校から、東京師範学校に入学し、翌大正12年に極東水泳選手権大会(大阪)に出場。 *大正13年 第8回オリンピック・パリ大会に200メートルリレー選手として出場。 *大正14年 日米水泳大会(ハワイ)にも出場している。 *大正15年 東京師範大学を卒業とともに、香川県多度津中学校に奉職。 *昭和 2年 大連中学校に奉職とともに、極東選手権(上海)に監督として出場。 *昭和 3年 第9回オリンピック、アムステルダム大会に監督として出場。 *昭和 7年 関東州体育研究所(旅順)での主事となった。 *昭和 9年 大連市立大連中学校に奉職。 *昭和15年 関東州学務課(関東局教育主事)として勤務。 *昭和20年 終戦とともに、中国政府の要請により、大連市政府社会局に勤務。 *昭和23年 日本に帰還。 *昭和24年 金沢大学教授となった。 *昭和25年 アメリカ政府の要請により、ナショナルリーダーとしてアメリカ各地を視察。 *昭和26年 文部省視学官となった。 *昭和34年 東京学芸大学教授となった。 *昭和35年 水府流太田派六代家元を継承。 *昭和41年 定年退職とともに、日本女子体育大学教授となった。 *昭和53年 二階堂学園常務理事になった。 *昭和57年 聖モニカ体育専門学校講師となった。 *昭和58年 高知県入りをした。 *昭和61年 故郷中村市名誉市民に指名。 *昭和63年 死去、享年85であった。 *著書に「私の泳ぎ」がある。 *勲三等瑞宝章受章の前滋賀大学教授、宮畑己年生は、直弟にあたる。 *下田小学校出身で、勲三等を受章したのは、宮畑虎彦、井上六助、山崎福馬、宮畑己年生の4人である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮畑虎彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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