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宮越馨 : ウィキペディア日本語版
宮越馨[みやこし かおる]
宮越 馨(みやこし かおる、1941年昭和16年)9月14日 ‐ )は、日本政治家(前新潟県議、元上越市長)、元官僚大蔵省主計局主査など歴任)。新潟県上越市出身。高田高校中央大学商学部卒。
== 人物 ==
大蔵省を退官後、渡辺美智雄秘書を8年務めた後、衆院選に3度出馬〔1986年7月1990年2月の総選挙無所属で、1993年7月の総選挙新生党から出馬〕したものの、いずれも落選した。宮越が出馬した旧新潟県第4区は、定数2を自民党高鳥修と当時同じく自民党だった白川勝彦、さらに社会党(当時)の筒井信隆の3人が激しく争っており〔1986年の総選挙では高鳥と白川、1990年の総選挙では筒井と高鳥、1993年の総選挙では白川と高鳥という得票順で当選した。定数が1減となった1986年以降の3度全てに当選している高鳥も首位は1回だけと安定しているわけではなく、1993年の総選挙では次点の筒井との差は僅か138票だった。〕、宮越はこの3度の選挙全てで4位と破れた〔ただし、得票数を1986年・30,906票→1990年・47,388票→1993年・51,731票と伸ばした(1993年総選挙では、2位の高鳥との差は7,471票)。〕。
3度目の落選直後の1993年11月より出身地の上越市長に就任、強力なリーダーシップで副市長制導入や情報公開条例の制定などの改革を実行した。しかしその反面、積極的な開発政策を実施した結果として市債残高を増大させ、市財政を上越市成立以来最悪の危機に陥れたことや、リーダーシップに対する反発なども見られた〔2005年10月27日付『讀賣新聞』より 〕。さらに、2期目にセクハラ問題〔セクハラ問題については毎日新聞2000年5月23日の記事などを参照〕で告訴されたこと(後に和解)や、ゴミ処理施設の解体工事を巡り訴訟合戦〔南クリーンセンター裁判の概要 :自民党・小林林一新潟県議(上越市選出)のHP より〕になるなど、反宮越の機運も高まった。
その結果、3期目を目指した2001年10月28日投票の市長選において、自民党の一部が木浦正幸県議を対抗馬として擁立〔2001年11月~12月の『新潟日報』連載企画より 〕し、宮越は現職であるにも関わらず2万票余りの大差で落選となった〔木浦の得票数 51,301票、宮越の得票数 28,612(得票率約35.8%)。立候補はこの両名のみ。〕。
その後、2003年4月の新潟県議選に当選したものの、翌年10月の新潟県知事選には4位落選、さらに全国最多となる1市13町村の合併後に行なわれた2005年10月30日投票の上越市長選で再度、木浦に大差で破れた〔木浦の得票数 81,402票、宮越の得票数 30,110票(得票率約27.0%)。立候補はこの両名のみ。〕。
2007年4月の新潟県議選・上越市選挙区に宮越が再度出馬するとの憶測もあったが、出馬しなかった。ちなみに、宮越は2005年の衆院選への出馬に意欲を示したが、自民党の公認を得られなかった(自民党は前回に続き、新人で高鳥修の息子・修一を公認)うえ後援会の反対(市長選への出馬論が大勢だったという)もあり、出馬を断念している。〔2005年8月22日付『朝日新聞』より 〕。
2009年、2度上越市長選を戦った木浦正幸市長が同年10月25日投開票の上越市長選挙への不出馬、引退の意向を明らかにし、村山秀幸副市長を後継者に指名。一方宮越は同年5月27日、市長選再出馬を表明した〔『新潟日報』2009年5月28日付〕。更に大島精次・上越タイムス社代表取締役会長兼上越ケーブルビジョン社長の女婿大島誠・上越タイムス社社長も名乗りを上げ、保守系3候補による選挙戦となった。3陣営とも第45回衆議院議員総選挙の結果国政与党となった民主党に支援要請したものの、民主党は自主投票を決め、同じく与党となった社民党も自主投票となった。自民党は既に3陣営それぞれに党員・支持者が分かれていたことからこちらも自主投票となった。投票の結果、村山が他2候補に2万票以上の大差をつけて当選、宮越は村山の半分の得票にも遠く及ばず最下位で落選した〔村山の得票数 53,071票 大島の得票数 30,400票 宮越の得票数 24,020票〕。
県知事選・市長選と立て続けに惨敗を喫し、政治生命を失いかけた宮越だったが、2010年、かつて秘書として仕えた渡辺美智雄の息子渡辺喜美が宮越に声をかけ、みんなの党に参加。同年2月、みんなの党農都共生支部(新潟県支部)を設立し支部代表となる。同年4月、みんなの党公認候補として第22回参議院議員通常選挙に立候補することが内定し、党参議院比例信越支部長に就任。みんなの党の比例代表候補となることが発表された。17年ぶりの国政選挙立候補となったが、結果は個人票が20,319と低迷し落選に終わった。政界引退との報も流れたが、自ら記者会見しこれを否定。引き続き党支部代表の職に留まり、政治活動を継続すると表明。次期統一地方選挙や衆議院議員選挙に際し新潟県内にみんなの党公認候補者を擁立する方針を示した。
2015年11月3日発令の「平成27年秋の叙勲」で、旭日双光章を受章した〔内閣府 平成27年秋の叙勲受章者名簿 小綬章以下(都道府県別)新潟県 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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