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家康 : ウィキペディア日本語版
徳川家康[とくがわ いえやす]

徳川 家康(とくがわ いえやす、)、または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名〔。江戸幕府の初代征夷大将軍〔。三英傑の一人で海道一の弓取りの異名を持つ。
家系三河国国人土豪松平氏。永禄9年12月29日(1567年2月18日)に勅許を得て、徳川氏に改めた。松平元信時代からの通称次郎三郎幼名竹千代(たけちよ)〔。本姓は私的には源氏を称していたが、徳川氏改姓と従五位の叙任に当たって藤原氏を名乗り、少なくとも天正20年(1592年)以降にはふたたび源氏を称している。馬印は、金扇。兜は、歯朶獅嚙輪貫前立大黒頭巾形兜。
== 概要 ==
徳川家康は、織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した〔。
家康は、戦国時代中期(室町時代末期)の天文11年(1542年)に、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)で出生した。父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。幼名は竹千代〔。
松平氏は弱小な一地方豪族(国人)であった。家康の祖父・松平清康の代で中興したが、清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により清康の嫡男・広忠が命を狙われ、伊勢に逃れる事態により衰退〔「徳川幕府家譜」、「三河物語」より。〕。帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名今川氏に誠意を示すため、子・竹千代を人質として差し出すこととした。しかし、竹千代が今川氏へ送られる途中、同盟者であった戸田康光に奪われ、今川氏と対立する戦国大名織田氏へ送られ、その人質となってしまう〔。竹千代はそのまま織田氏の元で数年を過ごした後、織田氏と今川氏の交渉の結果、織田信広との人質交換という形であらためて今川氏へ送られた。こうして竹千代は、さらに数年間、今川氏(今川義元)の元で人質として忍従の日々を過ごした〔。この間、竹千代は、元服して名を次郎三郎元信(もとのぶ)と改め、正室・瀬名(築山殿)を娶り、さらに蔵人佐元康(もとやす)と名を改めた(「元」は今川義元からの偏諱)〔。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ入城すると今川氏(義元の子・氏真)と決別し、信長と同盟を組んだ(清洲同盟)〔。この際、(義元からの偏諱(一字)を捨てる意味で)名を元康から(松平)家康(いえやす)に改め、信長の盟友(事実上は客将)として、三河国遠江国に版図を広げていくこととなる。永禄9年(1567年)には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となった〔。以後近江、遠江、三河などを転戦し、天正10年(1582年)、本能寺の変において信長が明智光秀に討たれると、神流川の戦いにより空白地帯となっていた甲斐国信濃国をめぐって関東後北条氏、越後の上杉氏と争い(天正壬午の乱)、この二ヶ国を手中にしてさらに勢力を広げた〔。
天正12年(1584年)、信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉との対立が深まり、小牧・長久手の戦いで対峙した〔。この戦いで家康は軍略的には勝利したものの、政略的には後れをとり、しかし屈服せずに講和〔。豊臣秀吉が実母を人質にさし出した後に、上洛して豊臣氏に臣下の礼をとった〔。天正18年(1590年)、小田原征伐において関東を支配していた後北条氏が敗北し退けられた後、秀吉から関東への領地替えを命じられ(関東移封)、長年の根拠地を失ったものの、豊臣政権の下で最大の領地を得ることとなり、五大老の筆頭となった〔。
秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて対抗勢力に勝利し、その覇権を決定づけた〔。慶長8年(1603年)には、後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開き、その支配の正当性を確立させた〔。慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて行った大坂の陣において豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした(元和偃武)〔。
元和2年(1616年)、駿府城にて死去する。享年75。その亡骸は駿府の久能山に葬られ(久能山東照宮)、1年後に下野国日光(現・栃木県日光市)に改葬された(日光東照宮)〔。家康は東照大権現(とうしょうだいごんげん)として薬師如来本地とする神格化され、「神君」、「東照宮」、「権現様」(ごんげんさま)とも呼ばれて、信仰の対象となった〔。また、江戸幕府の祖として「神祖」、「烈祖」などとも称された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tokugawa Ieyasu 」があります。



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