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寇恂 : ウィキペディア日本語版
寇恂[こう じゅん]

寇 恂(こう じゅん、? - 建武12年(36年))は、後漢初期の武将政治家である。子翼。上谷郡・昌平県(現在の北京市昌平区)の人(『後漢書』列伝6・本伝)。爵位雍奴侯諡号威侯光武帝の功臣であり、河内太守潁川郡太守、汝南郡太守、執金吾などを歴任した。「雲台二十八将」の第5位に序せられる(『後漢書』列伝12)。
==略歴==

彼の生家は先祖代々、現地の有力豪族であった。寇恂は若い時から学問を好んで励んだ。後に、州郡の官吏(功曹)として、上谷郡太守の耿況(雲台二十八将の耿弇の父)に仕えた。耿況は寇恂に一目置き、その才を賞賛した。
寇恂は、更始帝の派遣した行大司馬劉秀(光武帝)が華北出身で邯鄲で蜂起した易者王郎を討伐すべく兵を集めた頃に、太守耿況に漁陽郡と連合することを説いて上谷を劉秀に帰順させ、その一将として兵馬を率いて劉秀に合流した。故に彼は偏将軍・承義侯に任命された。後に、鄧禹の推薦によって食料の補給の拠点である河内郡の太守・行大将軍事となり、兵糧の輸送、弓射演習、矢の製造、軍馬の養成に勤めた。鄧禹が寇恂の文武の才能を述べる際に前漢相国蕭何を例として引いたために、よく蕭何と比較される。後にはその有能と聡明さで光武帝の信頼も勝ち得ている。
寇恂が、この河内郡の太守であった時に、黄河の対岸である河南洛陽から、劉秀の北伐の隙を狙った更始帝(劉玄)の武将・朱鮪蘇茂が攻撃を仕掛けたが、寇恂は兵才を発揮し、同僚の馮異と共にこれを撃退し、逆に洛陽まで進撃した。建武二年(26年)に、その目覚しい戦功を光武帝に絶賛され、雍奴侯に封じられた。
また、彼は外交の名手でもあり、相手を説得する時にその状況を察知して、見事に懐柔することを得意とした。彼は宰相の才があると言われたが、実際そうなることは無かった。彼が治めた土地には必ず、民百姓が彼を慕ったという。また、俸禄は朋友・部下の吏士に施し「我は兵士たちによって俸禄を得た。それ独りこれを受けるべけんや」と言っていた。
その後も、光武帝の隴西遠征に従軍し、隗囂の武将・高峻を降した。しかし、光武帝が天下統一する目前に病没した。
曾孫の寇栄(寇恂の末子の孫)は侍中を務めたが、宦官の讒言により辞職して郷里に隠棲した。しかし、延熹元年(158年)に幽州刺史張敬に家族とともに捕らわれて、延熹7年(164年12月桓帝の勅命により、寇栄は家族とともに皆殺しの刑に処され、こうして寇恂の子孫は凋落した(『後漢書』列伝第六-寇栄伝)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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