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寇 遐(こう か)は、清末、中華民国の政治家。北京政府で農商総長をつとめた。字は勝孚。号は玄疵。 == 事跡 == 1906年(光緒32年)、西安師範学堂選科に入学する。在学中に中国同盟会に加入した。1909年(宣統元年)に卒業後、同州中学堂監学となる。その傍らで、陝西省内の革命派の蜂起を支援する秘密活動に従事している。 中華民国成立直後は陝西省臨時議会副議長となり、さらに衆議院議員に選出されている。革命派として、反袁世凱の活動にも従事した。袁死後の第1次国会回復とともに再び衆議院議員に復帰した。 孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、これに応じて広州に赴き、国会非常会議議員、大元帥府参議などをつとめた。1922年(民国11年)、第2次国会回復とともに再び北京で衆議院議員となった。しかし、翌年の曹錕賄選に反発して孫の下に戻った。 1924年(民国13年)の第2次奉直戦争の際には、北京政変(首都革命)の発動に参与している。1925年(民国14年)12月、許世英内閣で農商総長に任じられたが、翌年3月、賈徳耀内閣の途中で辞任する。以後は北京に寓居した。 1931年(民国20年)に帰郷し、陝西省政府委員、同省臨時参議会議員、国民政府行政院僑務委員会委員、同賑務委員会委員などをつとめた。金石文研究を好んだことから、1934年(民国23年)に西安金石書画学会を発足させて、その会長となる。また、秦腔(陝西省の地方劇・戯曲)にも造詣が深く、研究書を著している。 中華人民共和国成立後も故郷に留まっている。陝西省人民政府委員などをつとめた。 1953年9月6日、西安にて死去。享年70。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寇遐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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