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富井政章 : ウィキペディア日本語版
富井政章[とみい まさあきら]

富井 政章(とみい まさあきら、1858年10月16日安政5年9月10日)- 1935年9月14日)は、日本法学者教育者法学博士帝国大学法科大学(現東京大学法学部教授、帝国大学法科大学長、貴族院勅選議員枢密顧問官等を歴任。法典調査会民法起草委員。和仏法律学校(現法政大学)校長。京都法政学校(現立命館大学)初代校長、立命館大学初代学長。男爵
== 人物 ==
京都聖護院宮侍だった富井政恒の長男として現在の京都府京都市に生まれた。
民法典論争では、フランス法を参考にしたボアソナードらの起草にかかる旧民法は、ドイツ法の研究が不十分であるとして穂積陳重らと共に延期派にくみし、断行派の梅謙次郎と対立したが、富井の貴族院での演説が大きく寄与したこともあって旧民法の施行は延期されるに至り〔杉山(1936)、154頁。〕、梅、穂積と共に民法起草委員の3人のうちの一人に選出された。商法法典調査会の委員でもある。
富井の主張は、穂積八束の主張した「民法出デテ忠孝亡ブ」といったようなイデオロギー的なものではなく、錯雑した「講義録」のような法典を実施すればフランス註釈学派の二の舞になって学問の進歩が阻害されてしまう〔これに対し、講義録体の旧民法を支持する立場からは、条文を国民が読むことを想定しないものであるとの批判がある(内田貴著 『債権法の新時代 : 「債権法改正の基本方針」の概要』 商事法務、2009年9月、ISBN 9784785717001、8頁以下)。一方で、民法の改正は委員会だけの仕事ではないのであって、国民全体の議論が必要であるが、これは別個の本によるべきで、いかに成文民法が改正されても、新たな判例法と慣習法が発達するためこれらを不要にはできないのだから、むしろ成文民法はより簡潔にして広範な判例・慣習法の発達に委ねるべきとの主張もある(穂積重遠著 『民法読本』 日本評論社、1927年5月、14-16頁 21頁 穂積陳重著 『法典論』 哲学書院、1890年3月、第五編第六章 )。〕、不平等条約改正の道具としてではなく国の実状に適したものとしての法典であるべきというあくまで学者としての立場からの慎重論であった〔杉山(1936)、155-169頁。大村(1996)、32頁。〕。もっとも、断行派であった梅も、旧民法やプロイセン民法に代表される細目網羅型・講義録形式型の法典に強い嫌悪を示している点で立場は異ならなかったから、新民法においては、既存のどの法典・草案よりも簡潔を旨として起草されることになったのである〔梅謙次郎 「我新民法ト外国ノ民法」(『法典質疑録』第8号、法典質疑会、1899年4月)670-679頁。加藤雅信著 『現代民法学の展開』 有斐閣、1993年9月、ISBN 4641037779、130頁。〕。

富井は、民法起草においても、学者的立場から慎重をもって旨とし、法実証主義・ドイツ法一辺倒の立場に立ち、実務的立場から迅速をもって旨とし、自然法論・フランス法にも親和的な立場に立つ梅としばしば対立し〔仁井田益太郎、穂積重遠、平野義太郎 「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」(『法律時報』第10巻第7号、日本評論社、1938年7月)。〕、穂積陳重と共に日本のドイツ法学導入の先駆者とされる。もっとも、旧民法起草当時日本にドイツ法の思想はほとんど入ってきておらず、また富井自身も梅、穂積と異なりドイツに留学したことはなかったため、民法のできる前は特にドイツ法の思想を主張したことは無かった。しかし、富井付きの起草補助委員だった仁井田益太郎ドイツ語に精通していたため、彼の手になるドイツ民法草案第一・第二の翻訳を通じてよくドイツ法の思想を消化し、「近世法典中の完璧とも称すへきもの」〔富井 『民法原論 第一巻総論上』 序 。〕であるとしてほとんどドイツ法一点張りで民法を作ろうという勢いであったとされ(仁井田の回想による)、日本民法学におけるドイツ法的解釈の端緒を切り拓いた〔前掲仁井田ほか、24頁。〕。なお、法典調査会においてはヴィントシャイトデルンブルヒの体系書にも言及しており、これらの書のフランス語訳版をも読んでいたものと推測されている〔前掲仁井田ほか、24頁。梅謙次郎 「デルンブルヒ独逸新民法論序 」(坂本三郎ほか共訳 『デルンブルヒ 独逸新民法論 上巻』 早稲田大学出版部、1911年3月)。川島武宜ほか編 『新版 注釈民法 3』 有斐閣、2003年10月、ISBN 4641017034、27頁。〕。
他方、国の実状を直視し、沿革的・比較法的研究を踏まえつつも法の不備を認め〔法の不備を認めるものとして、特に富井 『民法原論 第一巻総論上』 71頁 富井 『民法原論 第三巻債権総論上』 85頁 。〕、要点を簡明に明らかにして裁判官の運用にゆだねるべきとするのが、法典論争からの一貫した主張であり、主著『民法原論』に現れたように、それが学風となっている〔大村(1996)、32頁。〕。
長年にわたり東京帝大の民法講座を担当し、後に鳩山秀夫に引き継がれることになる東大民法学の基盤を確立。理路整然、簡にして要を得た名講義であったと伝えられる〔杉山(1936)、162頁。〕。条文などもほぼ全部暗記していたようである〔勝本正晃著 『法律・画・釣』 河出書房、1942年7月、13頁。〕。
留学時代の猛勉強から病弱であったが、健康に気を使ったため結果的に起草三博士の中で最も長命であった〔杉山(1936)、46頁、112-114頁。〕。しかし、慎重を期する性格のため、梅が民法典全分野についての著書『民法要義』を僅か五年ほどの内に完結したのに対し、富井の民法原論はついに債権総論の上巻までしか日の目を見ることはなかった〔財産法分野に関しては、非公式の講義録によって学説の全貌をうかがい知ることができる。〕。
晩年には穂積重遠らと共に民法改正(親族法相続法)の改正にも着手したが、戦争によって頓挫し、これは後に中川善之助我妻栄らに引き継がれることになる〔利谷信義 「穂積重遠」(潮見俊隆、利谷信義編 『法学セミナー増刊 日本の法学者』 日本評論社、1974年6月)325-326頁。〕。
刑法では、ボアソナードの弟子の宮城浩蔵らがフランス新古典派・折衷主義の立場をとっていたのに対し、犯罪の急増する社会情勢に対応できないと批判していち早く主観主義をとる新派刑法理論を主張した。その理論は、社会防衛論を基礎とする厳罰的主観主義で、現行刑法の成立に大きく寄与した。
日露戦争前夜には主戦論を唱え、七博士の1人として七博士建白事件に関与した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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