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富士忠時[ふじ ただとき]
富士 忠時(ふじ ただとき 生没年不詳)は室町時代の富士山本宮浅間大社大宮司で、富士氏当主。 == 略歴 == 富士山本宮浅間大社の大宮司であり、寛正3年(1462年)11月2日に能登守に任命されている〔「後花園天皇口宣案」『戦国遺文今川氏編第4巻』2665号〕。これは足利義政の推挙により後花園天皇が承知したものであるが、背景として今川氏の意向があったと言われている。また、堀越公方に協力させるために義政の方から今川氏に働きかけたとする説もある。 寛政六年(1465年)には父である「祐本」との対立を招き、お家騒動に発展する(『親元日記』)〔「伊勢貞親書状写」『戦国遺文今川氏編第1巻』14号・15号〕。祐本は宮若丸(祐本の孫)への家督相続を望んだが足利義政はそれに同意せず、祐本は反発して社頭に放火を行った。この行為に義政は憤慨し、文正元年(1466年)に親時の大宮司職への移動を伝えている〔「足利義政御内書写」『戦国遺文今川氏編第1巻』28号〕。このことにより文正元年(1466年)時点で、大宮司職は忠時から子である富士親時に移っていることが明らかとなっている。これにより、お家騒動の一応の終着を迎えた。 また村山(現在の静岡県富士宮市村山)の大日堂の大日像に「大宮司前能登守忠時・同子親時」とあり〔「木造大日如来坐像像内銘」『戦国遺文今川氏編第4巻』2668号〕、また「文明十年三月廿日」とあるため、この文明十年(1478年)時点には能登守を辞していたと考えられている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富士忠時」の詳細全文を読む
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