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富士映画 : ウィキペディア日本語版
富士映画[ふじえいが-]

富士映画株式会社(ふじえいが-、Fuji Eiga Co., Ltd., 1950年代 創立 - 1962年1月 改組)は、かつて存在した日本の映画会社である。現在の大蔵映画の前身である。
== 略歴・概要 ==
サイレント映画時代には活動弁士であった大蔵貢は、トーキー時代が近づくにつれ、映画館経営者にシフトして行ったが、少なくとも第二次世界大戦後の1955年(昭和30年)までには、富士映画を設立し、同年には、丸根賛太郎監督の『天下の若君漫遊記 前篇 変幻出没の巻 / 後篇 活殺自在の巻』を製作、同年8月9日、大蔵が取締役を務めていた日活の配給により同作を公開している〔天下の若君漫遊記 前篇 変幻出没の巻 後篇 活殺自在の巻 日本映画データベース、2010年8月2日閲覧。〕。同年12月には、大蔵が新東宝社長に抜擢されている〔『日本映画発達史 IV 史上最高の映画時代』、田中純一郎中公文庫、1976年3月10日 ISBN 4122003156, p.206-207.〕。1956年(昭和31年)以降の同社の製作物は、新東宝が配給することとなる。
社長を大蔵が務め、副社長には大蔵の実弟で歌手の近江俊郎(大蔵敏彦)が就任した。本社を東京都目黒区芳窪町11番地〔『文藝年鑑』、日本文芸家協会新潮社、1958年、p.78.〕(現在の同区東が丘1丁目あたり)に置く。同地は、1947年(昭和22年)に今村貞雄らが設立したラジオ映画株式会社のあった場所であり、ラジオ映画は1953年(昭和28年)1月、南方映画社を前身とするテレビ映画株式会社に吸収合併されていた〔『キネマ旬報年鑑』、黒甕社、1954年、p.103.〕。
1960年(昭和35年)、大蔵が新東宝から富士映画へ、新東宝第二撮影所(戦前の東京発声映画製作所、現在のオークラランド)を譲渡させる〔『日本映画発達史 IV 史上最高の映画時代』、p.332.〕。同年12月1日、大蔵は新東宝の代表取締役から退陣する〔。
1962年(昭和37年)1月、この富士映画を母体に「大蔵映画」を新たに設立〔『日本映画発達史 IV 史上最高の映画時代』、p.451.〕、洋画配給会社大和フィルムを吸収合併して同社代表の徳江清太郎を専務取締役に迎え、新会社・大蔵映画は同年、外国映画の配給を開始する〔。近江俊郎は引き続き大蔵映画の副社長を最晩年まで務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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