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富士通サッカー部[ふじつうさっかーぶ]
富士通サッカー部(ふじつうサッカーぶ)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。富士通のサッカー部として1955年に創部し、1996年に「富士通川崎フットボールクラブ」へ改称した。呼称は「富士通」。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属の川崎フロンターレの前身となったクラブである。 == 歴史 ==
=== 創立・JSL時代 === 富士通サッカー部は中原区の国鉄(現:東日本旅客鉄道)南武線武蔵中原駅前にある富士通〔当時の社名は「富士通信機製造株式会社」で、1967年に現在の「富士通株式会社」へ改称している。〕川崎工場の従業員を中心した同好会として設立され、1960年代から徐々に強化を進めた結果〔当時を知る資料として、1958年の第38回天皇杯3位の経験を持ち、東京大学サッカー部主将として1960年に富士通へ入社・入部した小山冨士夫の述懐が東京大学のサイトで公開されている。小山は「それまで富士通にはサッカー部はありませんでしたから、僕等が事実上のファウンダー<=創立者>でした」と述べている。出典:「東京大学基金 寄付者インタビュー第四回 小山冨士夫様」 〕、1967年の関東サッカーリーグ発足時のオリジナルメンバーとなった。1972年に日本サッカーリーグ(JSL)2部に昇格し、1976年にはGKで主将を務めた小浜誠二の活躍もあって同1部に昇格した。しかし1部からは2年後に降格し、その後はJSL2部での活動が続いた。この1部昇格時を含む1973年から1991年は八重樫茂生が監督または総監督を務め(中断期を含む)、富士通サッカー部の基礎を築いた。 1988年/89年シーズンには元中国代表の沈祥福が北京足球倶楽部から入団し、監督も来海章が就任して、以後は日本サッカーでは珍しく中国色の強いクラブへと変化した〔当時の中国代表は日本と同様にFIFAワールドカップ(W杯)本大会への出場を果たせずにいたが、AFCアジアカップでは1984年から1992年にかけて3大会連続でベスト4に入り、1988年にはソウルオリンピックで中華人民共和国として初のオリンピック出場を果たすなど、日本を上回る結果を残していた。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富士通サッカー部」の詳細全文を読む
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