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富小路公脩
富小路 公脩(とみのこうじ きんなが)は鎌倉時代後期の公卿。権中納言、正二位、弾正尹。権大納言小倉実教の二男。母は小倉季雄に同じか〔『公卿補任』には母が季雄の娘とあるが、季雄と公脩は5才違いのため、公脩の母が季雄の娘ということはあり得ない。母が季雄と同じであると記述すべきところ、誤記で季雄母となったと推測できる。〕。子には参議中将に至った実名、実敦、證季がいる。小倉家は公脩の子孫が継いでいくことになった。 == 経歴 == 以下、『公卿補任』、『尊卑分脈』の内容に従って記述する。 永仁6年(1298年)1月5日、叙爵〔延政門院御給。〕。永仁7年(1299年)1月5日、従五位上に昇叙。正安2年(1300年)4月7日、正五位下に昇叙。同年12月30日、侍従に任ぜられる。正安3年(1301年)12月6日、従四位下に昇叙。同月11日、侍従は元の如し。嘉元4年(1306年)3月30日、武蔵権介を兼ねる。同年12月22日、右少将に任ぜられる。徳治2年(1307年)4月3日、従四位上に昇叙。延慶2年(1309年)6月12日、正四位下に昇叙。延慶3年(1310年)4月7日、右中将に転任。同年12月28日、左中将に転任。 正和3年(1314年)10月21日、従三位に叙せられる。正和4年(1315年)6月27日、右兵衛督に任ぜられる。正和5年(1316年)8月12日、左兵衛督に転任。9月12日、参議に任ぜられる。参議に任ぜられると同時に左中将を兼ねる。文保元年(1317年)3月27日、備中権守を兼ねる。同年4月16日、権中納言に昇進。文保2年(1318年)1月5日、正三位に昇叙。元応元年(1319年)3月9日、権中納言を止められる。同年閏7月5日、従二位に昇叙。元亨2年(1322年)、本座を許される。嘉暦3年(1328年)1月5日、正二位に昇叙。元徳3年/元弘元年(1331年)11月5日、弾正尹に任ぜられる。正慶2年/元弘3年(1333年)5月17日、弾正尹を止められる〔隠岐から戻った後醍醐天皇の詔による。〕。建武4年/延元2年(1337年)2月17日、薨去。享年44。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富小路公脩」の詳細全文を読む
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