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富岡 秀長(とみおか ひでなが、(生没年未詳))は、戦国時代後期の武将。上野国小泉城(現在の群馬県大泉町)城主。富岡秀高の子〔館林市史〕。兄弟に富岡氏高がいる。通称は六郎四郎。 富岡氏は結城氏の庶流であり、上野赤井氏に臣従していた。永禄5年(1562年)長尾景虎(上杉謙信)の上野侵攻により赤井氏が没落すると、その旧領は館林領と小泉領とに二分され、館林城は足利長尾氏に与えられた。しかし小泉領は富岡氏が勢力を伸ばし、景虎に認められている。その後、両隣の足利長尾氏、由良氏が上杉方から北条方に鞍替えした為、両氏と抗争を繰り返した。しかし永禄12年(1569年)迄には富岡氏も北条方となり、越相同盟を迎えている〔群馬県史〕。 秀長(六郎四郎)の名は天正5年(1577年)に北条氏政の麾下として表れており〔富岡家文書〕、天正9年(1580年)には駿河まで出陣し、武田氏と戦っている〔。 天正10年(1581年)には、織田家臣・滝川一益に服属したと考えられるが、神流川の戦いにはどちらにも参陣せず、北条氏直より不審を買っている〔。以降は一貫し北条氏に従う。 天正11年(1582年)、長尾顕長、由良国繁の兄弟が反北条方に寝返り沼尻の合戦が勃発、佐竹義重、佐野宗綱等が何度も小泉城に攻め寄せるがこれを全て撃退し、北条氏直から、秀長、氏高兄弟へ感状が送られている〔。 天正18年(1589年)、氏高と共に小田原征伐に際し小田原城に篭城、所領を失った。 == 脚注 == とみおか ひでなが 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「富岡秀長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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