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寒河江兼広[さがえ かねひろ]
寒河江 兼広(さがえ かねひろ、旧字体:兼廣)は戦国時代の武将。寒河江氏17代。寒河江城主10代。 == 生涯 == 寒河江広種の子として享禄2年(1529年)に生まれる。父広種の死により天文15年(1546年)家督を継ぐ。永禄3年(1560年)最上義守・義光に寒河江城を攻められるが撃退する。溝延氏・白岩氏・左沢氏などの支流が独立傾向を強め、慈恩寺の檀那として名を連ねるようになる。また、寒河江氏の許可を得ず、自ら安堵状を発給するようになる。 寒河江大江氏の宗家に当たる出羽吉川氏から妻を娶り、男子に恵まれなかったためか庶流の白岩氏からも側室を入れて支配基盤の確立を目指した。叔母は山野辺氏に嫁いだ後娘を生み、その娘は最上義定の正妻となっていたが、義定が伊達稙宗の妹を娶った後没したので影響力は限定的であった。妻の姉妹たちは白鳥長久(谷地城主)・貴志美作守(八ッ沼城主)に嫁いでおり、吉川宗家との縁戚関係を軸とした同盟関係にあった。先代の広種が最上氏庶流(中野氏・楯岡氏・山野辺氏)を軸とした同盟関係を結んだのとは対照的である。 天正最上の乱では兼広が最上義光に付いたのに対し、白岩氏・左沢氏・溝延氏は伊達輝宗・最上義守に付くという分裂状態になり、天正2年(1574年)1月三氏は兼広の籠る寒河江城を白鳥長久・天童氏・蔵増氏・野辺沢氏などと共に攻め、本丸を残して破壊してしまう〔「伊達氏四代治家記録」天正二年正月二五日。〕。この攻撃により伊達氏に下ったが、7月再び兼広は最上義光に伺候する。それを知った伊達輝宗は怒り、自ら屋代荘新宿(高畠町)まで出馬するとともに中野氏・高擶氏・蔵増氏・天童氏に書状を出し出陣を求めた。亘理元宗・留守政景も参陣し一触即発の状態となったが、伊達氏と最上氏の間に和睦の兆しがあり伊達氏は引いた。8月に伊達氏と最上氏が楢下で争い、9月に和睦が成立したことで再び攻められることはなかった〔「伊達氏四代治家記録」天正二年七月十七日。〕。 その後、執政を務める柴橋頼綱の兄で出羽吉川氏を継いでいた高基が兼広の娘を妻とし、寒河江氏を継いだ〔天正四年三月十一日『大江高基安堵状』(朝日町「海野文書」)〕。兼広は天正6年6月8日(1578年)に亡くなった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寒河江兼広」の詳細全文を読む
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