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寒河江良光 : ウィキペディア日本語版
寒河江良光[さがえ よしみつ]

寒河江 良光(さがえ よしみつ、よしあき、生年不詳 - 慶長8年〈1603年〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶。大江氏宗家出羽吉川氏の嫡子として寒河江氏滅亡後寒河江大江氏の名跡を継ぐ。吉川隆広の長男。母は天童頼澄の娘。
== 生涯 ==
大江氏宗家である出羽吉川氏隆広の長男として生を受ける。幼名は乙若丸。父は次男であり、長男で良光にとっては伯父の吉川高基が出羽吉川氏を後継する。しかし、寒河江氏当主兼広に継嗣がなかったため、寒河江氏の執政を務めた叔父(父の弟)柴橋頼綱の斡旋により、高基が兼広の娘を娶り寒河江氏を継いだ〔天正3 - 4年頃とされる。〕。この結果、父が出羽吉川氏を継ぐこととなった。
天正12年(1584年)最上氏の侵攻により野戦を挑んだ柴橋頼綱は戦死、寒河江高基は自刃、父吉川隆広も兄に殉じて寒河江氏は滅亡した。良光は難を逃れて会津蘆名氏を頼り、くしくも同じく会津に逃れていた天海に随身する。その後最上氏に仕えた寒河江氏の旧臣らが寒河江大江氏の宗廟が廃れることを悲しみ、最上義光に対して良光を呼び戻して復興することを嘆願して許される。最上義光は寒河江大江氏の宗廟の阿弥陀堂を再建して118石余りの黒印地を与えた。
慶長5年(1600年)7月義光の命により、会津征伐中の徳川家康の戦勝祈願を行い、8月1日小山の陣へ御守札を献上した。同年最上義康の配下となり千石を加増される(「最上義光分限帳」無役)。慶長出羽合戦において僧体で出陣し谷地城の包囲に加わった。慶長7年(1602年)頃から最上義光と嫡男義康の仲が悪化し、寒河江領も義光次男最上家親が領するようになる。慶長8年(1603年)ついに義康は高野山への蟄居を申付けられ、庄内経由で向かう途中狙撃され殺害された。良光とその嫡男広道も義康に同道しており討死したという〔『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.107、「安中坊系譜」〕。加増された千石は没収されたものの安中坊の存続は認められた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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