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大江親広[おおえ の ちかひろ]
大江 親広(おおえ の ちかひろ、旧字体:親廣)は鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府政所初代別当大江広元の長男。母は多田仁綱の娘。妻は北条義時の娘竹殿。 == 生涯 == 源通親の猶子となって〔「江氏系譜」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.509〕〔「江氏系譜」『大日本史料』第5編2冊655頁。嘉禄元年6月10日〕源親広と称した。『吾妻鏡』には正治2年(1200年)2月記事から右近大夫将監として登場する。建仁3年(1203年)10月、将軍となった源実朝の元服に際し、北条義時と共にその道具を用立て饗応の手配を行った〔『吾妻鏡』建仁三年十月小八日癸夘条〕。11月鎌倉薬師堂の管理を命じられる。父が幕府の実力者であったことから実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも執権義時の娘婿として厚い信任を受けた。承元3年(1209年)頃から遠江守となる〔『吾妻鏡』承元三年十月大十日庚午条。〕。建保元年(1212年)法勝寺九重の塔の供養の守護を務める。建保2年(1213年)大沼大行院浮島稲荷本社拝殿を修復する〔「大沼大行院系図」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.193〕。建保3年(1215年)4月京都駐在の御家人の監督を命じられ、同年6月将軍実朝の代理として栄西の臨終に立ち会う。建保4年(1216年)6月父の大江復姓に合わせて大江姓に戻った。建保7年(1219年)1月、実朝が公暁に暗殺されたため、出家して蓮阿と号す。同年2月、伊賀光季と共に京都守護に任じられて上洛した。承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与し、近江国にて幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻った。この戦いでは父広元は大軍による上京策を献策し鎌倉軍の士気を高め、嫡男佐房は鎌倉側東海道方面軍に加わり幕府軍の勝利に貢献した。佐房は戦後上田荘を与えられ幕府要職に就いた。 戦後は行方をくらましたが、祖父の多田仁綱が目代を務める出羽国寒河江荘に隠棲していたと言われている。また、乱後に離別させられた竹殿は、後に通親の子・土御門定通の側室となっており、定通の甥にあたる後嵯峨天皇の即位と深く関わることになる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大江親広」の詳細全文を読む
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