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寒河江高基[さがえ たかもと]
寒河江 高基(さがえ たかもと)は、戦国時代から安土桃山時代の寒河江氏の最後の当主(18代)。大江氏宗家出羽吉川氏から寒河江氏に入る。吉川元綱の長男で柴橋頼綱の兄。 == 生涯 ==
大江氏宗家である出羽吉川氏元綱の長男で当初吉川宗家を相続したとみられる。しかし、末弟柴橋頼綱が寒河江氏17代兼広の執政となり、兼広死後男子がなかったことから、兼広の娘と兄である寒河江高基の縁談を仲介し寒河江氏18代を継ぐこととなる〔寒河江兼広が最上義康(天正3年(1575年)生)の婿入りを約束したとすると、天正4年(1576年)高基の買地安堵状が現存するため、天正3年~天正4年に寒河江城主になったと推定される。(『寒河江市史 上巻』p.739)〕。寒河江兼広と最上義光の間には義光の子最上義康を婿として寒河江氏を継がせる約束があったことから、両家の間には確執が起こり、さらには同族である左沢氏や溝延氏の反発を招いた。なお、吉川宗家は弟隆広が継いだ。天正9年(1581年)から天正10年(1582年)にかけて最上義光は新庄を中心に大宝寺氏(武藤氏)と争う。その後義光は武藤氏攻略をめざし武藤氏の家臣前森氏を調略し、前森氏(東禅寺義長・東禅寺勝正)は武藤氏の居城尾浦城(現・山形県鶴岡市大山)を取り囲む。高基は自ら六十里越を通り、縁戚関係にあった大宝寺義氏の救援に向かうが、到着前に武藤氏は滅亡してしまう。その際、大綱注連寺より三千仏の画像三幅対を持ち帰り、慈恩寺弥勒堂に寄進している。 天正12年(1584年)6月7日最上義光が寒河江荘北方を領する白鳥長久を誘殺し間髪を入れず3千の兵で白鳥氏本拠谷地城に攻め込む。寒河江から柴橋頼綱も救援に駆けつけ、白鳥氏との連合軍2千の兵で当たるものの破られ数日のうちに谷地城は落城してしまう。時を移さず、義光が寒河江城攻撃の態勢を整え押し寄せると、柴橋頼綱は白鳥氏旧臣を糾合して最上川を越えて最上氏の陣に攻め込み、須川を越えて中野の出城(中野城)まで到達した。義光は策を巡らせ、偽りの退却と鉄砲隊の伏兵によって頼綱は打ち取られた。 頼綱が打ち取られた翌日最上氏は寒河江に討ち入るが、寒河江氏家来衆は態勢を立て直す余裕もなく最上氏に下り、高基は貫見楯(現・山形県西村山郡大江町貫見)に逃れたものの6月28日、3名(高屋・入間・溝谷)の忠臣と共に自害し果てた。また、弟吉川隆広や家臣12名も貫見楯で自害している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寒河江高基」の詳細全文を読む
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