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行書黄州寒食詩巻[ぎょうしょこうしゅうかんじきしかん] 行書黄州寒食詩巻(ぎょうしょこうしゅうかんじきしかん)とは、北宋時代の詩人蘇軾(1036年(景祐3年)-1101年(建中靖国元年))が、筆禍事件により黄州に流罪となった後、この地で3度目のを迎え、身の不遇を嘆く詩2首を、縦34.2センチメートル、横199.5センチメートルにわたる紙本に墨書したものである〔富田(2014年)92ページ〕。寒食帖(かんじきじょう)ともいう。現在は台北市にある国立故宮博物院の所蔵である〔富田(2014年)93ページ〕。
== 背景 == 本詩巻の作者の蘇軾は、蜀(四川省)の眉州眉山県の出身、22歳のとき弟の蘇轍と同時に進士に及第し、エリート官僚としての道を歩み始めた〔興膳(2008年)183ページ〕。彼が科挙に合格し、政界に入ったころは、新しい政策を実施しようとする王安石の新法党と、これに反対する旧法党の争いが激しかった〔。「新法」とは神宗(1048年-1085年)のもと唐末五代の混乱後の国政の建て直しが急務となっていた〔井ノ口(2012年)97ページ〕。そのため、『周礼』に説かれる一国万民の政治理念すなわち万民を斉しく天子の公民とする斉民思想に基づく、均輸法・市易法・募役法・農田水利法などの経済政策や科挙改革・学校制度の整備などの施策である〔。新法党に異を唱えた蘇軾は〔、新法党に憎まれ、1079年(元豊2年)には、新法党の一派によりその詩が天子を誹謗したとして逮捕された。厳しい取調べを受け、蘇軾も一時死を覚悟する程であった〔。神宗の特別の計らいで、黄州(湖北省黄岡市)に流罪となった〔〔。2年間食べ物にも窮する生活を余儀なくされていた〔。このとき蘇軾47歳であった〔。なお、寒食節とは、冬至の後105日目に火の使用を禁じ、煮炊きをせず、作り置きの料理のみ食する風習である〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「行書黄州寒食詩巻」の詳細全文を読む
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