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宮騒動[みやそうどう] 宮騒動(みやそうどう)は、鎌倉時代の寛元4年(1246年)閏4月に起きた、北条(名越)光時の反乱未遂および前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放された事件。年号を取って寛元の乱、寛元の政変ともいう。北条氏内部の主導権争いと北条氏に反感を抱き将軍権力の浮揚を図る御家人たちの不満が背景にあり、この事件により第5代執権・北条時頼の権力が確立され、得宗(北条家嫡流)の専制権力への道を開いた。 宮騒動と称される理由は『鎌倉年代記裏書』で「宮騒動」と号すとあるためだが、「宮」を用いる由来は不明〔 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.53〕。事件の背後にいた九条頼経は九条家の一族で「宮」と称されることはあり得ず、結果的にこれより6年後に摂家将軍の追放と親王将軍の誕生へとつながったためではないかとされる〔。 == 背景 == 仁治3年(1242年)、第3代執権・北条泰時が死去する。嫡子時氏、次子時実はすでに死去していたため、時氏の子・経時が執権職を嗣ぐこととなったが、すでにこの頃、北条家は庶流が多く分立しており、経時の継承に対して不満を持つ者も少なくなかった。特に庶長子であった泰時に対し正室腹の次弟・北条朝時を祖とする名越家は北条氏嫡流(のち得宗と呼ばれる)への対抗心が強く、名越光時らは不満を募らせていた。 一方、幼少時に鎌倉へ下向し、執権北条家の傀儡となっていた4代将軍・藤原頼経も成年に達し、自ら政権を握る意志を持ち、反執権勢力の糾合を図っていた。これに危険を感じた経時は、寛元2年(1244年)に頼経を将軍の座から降ろし、子の頼嗣を擁立した。しかし、経時はその後、重病となり寛元4年(1246年)3月、弟・時頼に執権職を譲った直後、閏4月に23歳の若さで死去する。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮騒動」の詳細全文を読む
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