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寛城子事件[かんじょうしじけん]
寛城子事件(かんじょうしじけん)は1919年7月19日に満洲寛城子(長春内の行政区分)で発生した日本人暴行事件に端を発した日中両軍の衝突事件〔p976 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻〕。長春事件とも呼称された〔p986 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻〕。
== 背景 ==
北清事変(義和団の乱)による北京条約によって欧米諸国、日本は邦人保護のために中国に軍を駐留させていた。1916年8月13日には中国軍によって駐留日本陸軍将兵、警察官17名が死傷させられる鄭家屯事件が引き起こされていた〔pp635-636 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正5年(1916年)第2冊〕。寛城子事件勃発時における満州では張作霖(奉天軍閥)、孟恩遠などが権勢を誇り、中央と連携を図っていた張作霖が老齢の孟恩遠を圧倒しつつあったが、張作霖に屈するのを潔しとしない部下の働きかけなどにより孟恩遠は反抗運動を起こし、吉林省民たちもまた張作霖の専横に憤慨し中央の命令には従わない状況であった〔。このため、孟恩遠は吉林省独立を宣言したが、張作霖は中央政府の命として討伐の声明を発したため、吉林軍は寛城子附近を中心として兵力を集中させていた〔。これらの動きもとで駐留日本軍は両勢力に対して好意的な忠告を何度か試みていたが、両勢力からはそれぞれ自己に好意的であるとみなされていた〔。一方、満洲在留邦人は孟恩遠、張作霖間の確執に対して孟に善く張に悪しい感情をもっており、ことに張作霖が功を急ぐあまりに行う悪辣な手段が暴露されて行くにともない、孟恩遠への同情が集まって行っていた〔。 このような最中、中国軍によって盛んに馬車の徴発が行われ、在留邦人の営業にも影響が出ていた〔。7月17日に日本側は中国に鉄道付属地域内においては徴発を行わないよう申し入れたところ、東清鉄道東路司令官旅長高俊峯は絶対に行わないよう約束したが、事件前日となる7月18日には中国兵は邦人に対して徴発を行い、これを阻止しようとした警察官を暴行し負傷させた〔p978 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻〕。被害にあった栗坪主一巡査は日本附属地域内東五条街で馬車の徴発を取り締まっていたところ中国兵4名から投石の上、集団暴行を加えられ、頭部を刀で3ヶ所に渡り切り付けられた〔p1039 日本外交文書デジタルアーカイブ 大正8年(1919年)第2冊下巻〕。しかしながら、寛城子における日中両軍は将校が互いに往来し合う円満な関係であり、邦人警察官への暴行が行われた日も住田米次郎中尉は中国軍の幕営にて饗応されていた〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寛城子事件」の詳細全文を読む
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