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察度[さっと]
察度(さっと、1321年(至治元年) - 1395年11月17日(洪武28年10月5日))は琉球の国王の一人。中山王。現在の宜野湾市の出身だという。宜野湾市の偉人の一人。神号は、大真物(うふまもの)。 == 概要 == 伝承では浦添間切謝名の奥間大親と伝説上の天女である飛衣(羽衣)の子とされる。生まれた家は極めて貧しかったが、当時強勢を誇っていた勝連按司の娘を娶ったことにより家運を起こした。30歳のとき、浦添の英祖王統を滅ぼし察度王統を建てる。その時、英祖王統の金蔵を空け、全て武器や農具に必要な鉄を購入するために使ったといわれている。 1372年、明から楊載を招諭使として琉球に送られ、それに応じ、弟の泰期を朝貢の使者として送り、表を奉り臣を称し、貢物を献上している。このようにして明との交流が開始されたが、北山国及び南山国も明に使節を送り、中山・山南・山北の王位に冊封されている。英祖王統の残党勢力といえる読谷山按司、山北王国(北山王国ともいう)、山南王国(南山王国とも言う)の間で争いは絶えなかったが、冊封体制の中での三山時代が確定されることとなった。 なお朝鮮半島の『高麗史』、『李朝実録』などによれば、高麗へ1389年に玉之を朝貢の使者として送り、高麗に代わった李氏朝鮮へも同じく1392年から朝貢の使者を送っている。1394年には、朝鮮へ逃亡したという山南王子承察度の送還を求めたことが知られる。 また同時期には宮古・八重山からの入貢もこの時期行われるようになった。1390年、宮古の与那覇勢頭豊見親は島内統一の際の後見を期待して入貢している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「察度」の詳細全文を読む
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