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寺島忠三郎[てらしま ちゅうざぶろう]
寺島 忠三郎(てらしま ちゅうざぶろう、天保14年(1843年) - 元治元年7月19日(1864年8月20日))は、日本の武士・長州藩士、尊皇攘夷派の志士である。父は寺島直一。兄に寺島秋介。諱は昌昭、字は子大。作間忠三郎などの変名を名乗る。家格は無給通組。 == 経歴 == 周防国(山口県)に生まれる。藩校明倫館、私塾松下村塾で吉田松陰に師事した。文久2年(1862年)、高杉晋作、久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多、松島剛蔵、有吉熊次郎、赤禰幹之丞、山尾庸三、品川弥二郎らと御楯組結成に参加、長州藩家老の長井雅楽暗殺計画にも参加する。元治元年(1864年)、八月十八日の政変で長州藩が失脚した後に、久坂玄瑞と共に禁門の変で互いに刺し違えて自害して果てた。享年21。 墓所は京都市の霊山護国神社ほか。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寺島忠三郎」の詳細全文を読む
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