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寺崎広業 : ウィキペディア日本語版
寺崎広業[てらさき こうぎょう]

寺崎 広業(てらさき こうぎょう、慶応2年2月25日1866年4月10日) - 1919年2月21日)は、秋田県出身の日本画家
== 経歴==

放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれた。寺崎家も藩の重臣であった。父の職業上の失敗もあって横手に移って祖母に育てられた。幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたという。秋田医学校にも入ったが学費が続かなかった。結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。生活はようやく安定したが絵への心は少しも弱まらなかった。広業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京した。1888年(明治21年)春23歳のことである。
上京すると平福穂庵の門をたたいた。広業は4か月でまた放浪の旅に出るが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていた。足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し美人画で名を挙げた。1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をした。ここで諸派名画を模写し広業の総合的画法の基礎を築いたといわれる。1892年(明治25年)に結婚し向島に居を構えた。火災に遭って一時長屋暮らしをしたこともあったが、1898年(明治31年)東京美術学校助教授に迎えられた。翌年、校長の岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の広業は美校を去った。天心と橋本雅邦日本美術院を興し、橋本門下の横山大観下村観山らと広業もこれに参加した。1900年(明治33年)には秋田・大曲・横手に地方院展を開催、故郷に錦を飾った。
広業は翌年、美術学校教授に復し天籟散人と号した。1904年(明治37年)には日露戦争の従軍画家となり、その経験を生かして木版画による戦争絵美人画花鳥画を多く描いており、軍神橘大隊長と知り合ったが健康を害して3か月で帰国した。1907年(明治40年)には第1回文展が開催されて日本画の審査員となり、自ら大作「大仏開眼」を出品した。1912年(大正元年)の文展には「瀟湘八景」を出して同名の大観の作品とならび評判作となった。1913年(大正2年)には美術学校の日本画主任となり、1917年(大正6年)6月11日には帝室技芸員を命ぜられ〔『官報』第1458号、大正6年6月12日。〕、芸術家として斯界の最上段に立つようになった時、病気になる。広業は1919年(大正8年)2月、54歳を一期に世を去った。異父弟佐藤信郎が耳鼻咽喉科医として脈を取るという印象的な場面であったという。村松梢風の『本朝画人伝』によれば咽喉癌であった〔村松梢風 「寺崎広業」(『本朝画人傳 巻六』 中央公論新社〈中公文庫〉、1977年1月10日、p.168)。〕〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)190頁〕。その葬儀に三千人も会葬したほど、かつての放浪の画家といわれた広業も社会的地位が高くなっていたのである。菩提寺は曹洞宗総泉寺(東京都板橋区)。

File:High Mountains Clear Autumn 2 by Terasaki Kogyo (Akita Museum of Modern Art).jpg|『高山清秋』1914年(秋田県立近代美術館)
File:High Mountains Clear Autumn 1 by Terasaki Kogyo (Akita Museum of Modern Art).jpg|同左


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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