|
寺田 周平(てらだ しゅうへい、1975年6月23日 - )は、日本の元プロサッカー選手。ポジションはディフェンダー。神奈川県横須賀市出身。 == 来歴 == 日産自動車サッカー部の下部組織で本格的にサッカーを始める。その後、神奈川県立横須賀高等学校から東海大学へ進学。在学中はサッカー部自体は関東2部や神奈川県リーグに所属していたが、1995年に開催されたユニバーシアード福岡大会でサッカー競技代表の中心選手として日本の大会初優勝に貢献し、プロからも注目を浴びる。卒業後は日産サッカー部の後身、Jリーグの横浜マリノス(現在の横浜F・マリノス)への入団が内定していたが、メディカルチェックで頸椎に問題が発見されて不合格となり、1年間の浪人生活を過ごした。 1999年、Jリーグ2部(J2)の川崎フロンターレに入団。日本には珍しい長身のボランチで、背番号「6」を与えられて開幕戦から先発メンバーとして出場した。シーズン途中は負傷により離脱したが、終盤戦に復帰してチームの優勝に貢献した。 チームがJ1に昇格した2000年にもレギュラーとなったが、5月の練習中に膝の靱帯を損傷し離脱。5月3日の磐田戦でJリーグ初ゴールと初退場を記録した直後の負傷で、さらに他の負傷なども重なって、公式戦復帰には約2年半を要した。以降、運動量が比較的少なくて済み、屈強な身体を活かせるディフェンダー(センターバック)に転向したが、度重なる怪我に悩まされ、ほとんど公式戦に出場できない日々が続いた。しかし2004年に復活を遂げ、伊藤宏樹、箕輪義信と組んだ長身3バック(通称・川崎山脈)は守備の安定に大きく貢献した。 Jリーグ選手協会では2004年に川崎支部の会長、2005-06年には副会長を務めた。 2008年5月27日のキリンカップ・パラグアイ戦で、32歳339日で日本代表初出場(歴代4番目の年長記録、Jリーグ発足後では最年長)。 2010年は両ひざを手術した影響もあり公式戦13試合の出場に止まる。シーズン終了後、現役引退を発表した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寺田周平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|