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寺田 宗有(てらだ むねあり、1745年(延享2年) - 1825年9月13日(文政8年8月1日〔弟子白井亨の著『兵法未知志留辺』に「文政八乙年八月朔日天然ヲ以テ終ル行年八十一歳」と書かれている。〕))は、日本の江戸時代後期の兵法家、剣客であり、天真一刀流の祖。 幼名、三五郎。通称、喜代太、五郎右衛門〔白井亨の著『兵法未知志留辺』(再録本p.71上)や『剣客列伝』の「北辰一刀流 - 千葉周作」(藤島一虎)では通称を「五右衛門」とする。〕。号、天真翁。 == 経歴 == 高崎藩士・寺田五郎右衛門宗定の子。寺田家の先祖は武蔵国川越(現埼玉県川越市)の人で、宗有の4代前、寺田門右衛門のときに高崎藩主・松平右京太夫に仕えた。 宗有は15歳〔この記事では年齢は数え年、年月日は太陰太陽暦(旧暦)。西暦年は便宜的に付けたものなので1年ずれている可能性もある。〕のとき、中西派一刀流の中西道場(中西子定(忠太))に入門した。修行中に師・子定が没し、2世子武(忠蔵)が道場を継いだが、このころ剣術界は従来の木刀による形稽古から竹刀・防具による打込稽古への転換期にあり、子武は竹刀による打込稽古の主唱者であった。だが、面・籠手などの防具を着けての打込稽古を「剣法の真意に背く」と考えた宗有は不満を募らせ、中西道場を去った。17歳のときである。 翌年、18歳で高崎藩に出仕し、剣術は平常無敵流の池田八左衛門成春に入門した。以後12年間〔『兵法未知志留辺』再録本p.71右上〕修行して谷神伝(こくしんでん)奥義〔『剣と禅』 p.211では、道の本体が空虚であることを谷にたとえたもので、「虚無の道」とする。〕を授けられ、池田門の重鎮と目されるようになる。このほか、居合を伊賀平右衛門、砲術を佐々木伝四郎、槍術を長尾撫髪、柔術を金子伝右衛門に学び、すべて皆伝免許を得たという。 寛政4年(1792年)から高崎在勤として民政役に就く。この間、天狗岩の堰造成や、琴平宮の勧請(高崎市新後閑町)〔もともと稲荷神が祀られていた地に、宗有が一昼夜で讃岐の金刀比羅宮から分霊を勧請したと伝えられる。〕などの業績を残す。しかし、藩では一刀流以外の流派の剣術師範を認めなかったため、平常無敵流の宗有が剣術師範として用いられることはなかった。 寛政8年(1796年)、藩侯・松平輝和から一刀流の再修行を下命され、江戸に出て再び中西道場に戻った。このころ道場は、中西子武はすでに亡く、3世子啓(忠太)の代となっていた。道場では高柳又四郎〔「音無しの剣」と呼ばれる難剣で知られた。〕が20代の若さで師範代を務めており、翌寛政9年(1797年)には白井亨が入門する。 寛政12年〔『兵法未知志留辺』再録本p.71右上〕(1800年)、宗有は56歳で一刀流の皆伝免許を許された。翌享和元年(1801年)2月、中西子啓が47歳で急逝したとき、子啓の養子、兵馬はまだ15歳だった。宗有は兵馬を後見し、高柳、白井の二人を師範代に配して道場を支えた。寺田宗有、高柳又四郎、白井亨の3人は「中西道場の三羽烏」と呼ばれ、宗有はその筆頭といわれた。5年後、兵馬は宗家4世を継いで中西子正(忠兵衛)を名乗った〔中西子正の門人から浅利義信(又七郎)、千葉周作らが出ている。〕。 文化8年(1811年)、白井亨と立ち合い、白井は宗有に入門する(#天真一刀流の道統を参照)。 文政8年(1825年)8月1日、81歳で没。駒込光源寺に葬る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寺田宗有」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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