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三善為康[みよし の ためやす] 三善 為康(みよし の ためやす、永承4年(1049年) - 保延5年8月4日(1139年8月29日))は、平安時代後期の貴族・算道家。大外記・三善為長の養子。官位は正五位下・諸陵頭。『朝野群載』や『二中歴』の元となった『懐中歴』・『掌中歴』など多くの著作を著した。 == 経歴 == 越中国射水郡の豪族射水氏の出身。治暦3年(1067年)に上洛して、三善為長のもとで算道を学ぶ。後に為長の養子となり、三善氏を継ぐ〔延喜5年(905年)の宣旨によって、外記・史・諸道博士・主計主税助・左右近衛将監以外の者が改姓することが認められなくなり、地方出身者が中央官人になり得る姓を手に入れるにはこれらの官職を目指す必要があった。一方外記・史・諸道博士などの家側でも家職を継ぐ子供がいない場合、もしくは子供にその能力がない場合には優秀な養子を迎えることで家名の存続を図ろうとする動きがあった。後継者を確保したい師匠=養父(三善為長)と中央に出仕したい弟子=養子(射水→三善為康)の思惑の合致が縁組の要因と考えられている(曽我良成「官司請負制下の実務官人と家業の継承」(初出:『古代文化』第37巻第12号(古代学協会、1985年12月)/改題所収:「実務官人の〈家〉と家業の継承」曽我『王朝国家政務の研究』(2012年、吉川弘文館) ISBN 978-4-642-02497-6) )。〕。後に紀伝道を兼修して省試及第を目指すが落第を重ねた(後年、『続千字文』跋詩の中で大学寮の紀伝道教育が漢詩を弄るだけの昇進のための道具となったと痛烈に批判している)。康和2年(1100年)に正六位上・少内記に叙任。 堀河天皇の時に抜擢されて算博士・諸陵頭を兼ねる。永久4年(1116年)に『朝野群載』を著す。同5年11月16日(1117年)と予報された月食の発生を否定する意見を述べ、的中させた〔『殿暦』〕。のち、尾張介・守、越後介と地方官も歴任した。 大治4年(1129年)1月6日に81歳にして正五位下に叙せられる。また、同年には暦道が、8月に閏月を置くのは良くないとして退閏(改暦)を唱えた際には、宿曜道の隆算とともに、暦道の主張に根拠がないことを唱えた。 晩年には強い阿弥陀信仰を抱き、天承年間には結縁のための勧進の一環として、大江匡房の『続本朝往生伝』を引き継いだ『拾遺往生伝』を著し、続いて『続拾遺往生伝』を執筆した。91歳の長寿を保ち、亡くなる際には阿弥陀如来に向かって多年の念仏の功徳によって必ず引接を垂れ給わんことを祈請しながら没し、往生人(極楽往生した人)となったといわれている〔『本朝新修往生伝』〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三善為康」の詳細全文を読む
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