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小倉藩 : ウィキペディア日本語版
小倉藩[こくらはん]
小倉藩(こくらはん)は、江戸時代豊前国にあった。藩庁は小倉城福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。
== 略史 ==
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の家臣であった森勝信が豊前小倉6万石(一説に10万石)を与えられ、小倉城に入城。なお、子の勝永にも豊前国に1万石(4万石とも)を与えられ、この際に秀吉の計らいによって元の姓である森から、中国地方の太守・毛利氏の姓を名乗らせている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの際に細川忠興は東軍に属して戦い、居城である丹後国田辺城は父細川幽斎田辺城の戦いで勅命によって講和するまで西軍に頑強に抵抗したことなどから丹後田辺・豊後杵築合わせて18万石から豊前一国と豊後国国東郡速見郡39万9千石へと加増され当藩が成立した。当初は中津城に入城したが、直ちに毛利氏の旧小倉城の跡地に大大名の居城として相応しい規模の城郭・城下町の建築に着手し、慶長7年(1602年)小倉城に藩庁を移した。宮本武蔵(一説では小倉藩家老の食客)と佐々木小次郎(同じく小倉藩剣術指南役)との決闘が、当時は小倉藩領であった巌流島(現在は山口県下関市域)で行われたのは細川氏の時代である。2代・忠利寛永9年(1632年加藤忠広の改易に伴い、更に加増され熊本藩54万石に移封した。
同年、播磨国明石藩より小笠原忠真〔忠真は細川忠利の正室千代姫の実兄であり、細川氏移封時の引き継ぎも配慮されたと推測されている(山本博文『江戸城の宮廷政治』講談社学術文庫 P191)〕が入封し、小倉城主として豊前北部15万石を領した。なお、支城の豊前中津城には忠真の甥長次が8万石で入封し中津藩が、同じく豊後杵築城には忠真の弟忠知が4万石で入封し杵築藩が成立した。
忠真は徳川家康の外曾孫(母は松平信康の娘)であり、以後小倉小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を押さえる九州探題の任を受け外様大名の監視を行った(これが幕末動乱における小倉城落城の遠因ともなる)。忠真の家臣宮本伊織(宮本武蔵の嗣子)は、父子ともに出陣した島原の乱の軍功等により知行4000石の小倉藩筆頭家老となり、以後宮本家が代々その地位を世襲した。
2代忠雄寛文7年(1667年)藩主襲封の際、弟の真方小倉新田藩(千束藩)1万石を領内分藩させた。
享保15年(1730年6月には、第3代藩主・忠基の二男長逵が、継嗣のいなかった播州安志藩初代藩主・小笠原長興の養子となり、同年12月に第2代藩主となる。以後、江戸時代の間を通じて小倉藩・小倉新田藩・安志藩の小笠原三家は継嗣の養子縁組等により関係を深め、小倉新田藩のみならず本来小笠原氏の嫡流であった安志藩もが小倉藩の分家筋のように位置付けられていくこととなった。
4代忠総宝暦8年(1758年)城内に藩士の文武教練場として思永斎を設けた。これが後の藩校思永館となった。
安永6年(1777年犬甘知寛(いぬかい ともひろ)が家老に就任し藩財政改革を行った。犬甘の努力により寛政10年(1798年)頃には財政も好転し銀8千貫の貯蓄が出来るまでに至った。しかし、反対派の陰謀により享和3年(1803年)失脚し無実の罪により入牢。非業の死を遂げた。その後、藩内では重臣間の派閥争いが続くこととなった。
文政3年(1820年)、郡代・杉生貞則による産業振興策が開始され、今川の河川改修、各地の道路整備、宇島港築港などが行われる。
幕末安政元年(1854年)には家老・島村志津摩、郡代・河野四郎らによる藩政改革が開始される。農産品・石炭・焼物等の主要産品集荷・販売の藩機構による管理、生産者育成・販路開拓、庄屋層の農村運営の検査・粛正等を実施。
文久3年(1863年)には、海防強化のため関門海峡沿岸に葛葉台場・東浜台場・西浜台場等の砲台を建設し、補助兵力として農兵の募集・訓練も開始した。この年には対岸の長州藩が関門海峡を通行する外国船に砲撃を行い、下関戦争につながってゆくが、幕府は敵対行動を取っていない外国船への一方的な先制攻撃を指示しておらず、小倉藩は配備は敷いたものの戦闘行動は行っていない。また慶応元年(1865年)には蒸気船飛龍丸を購入している。
長州征討では、小倉藩は幕府側の九州側最先鋒として第一次、第二次ともに参加した。元治元年(1864年)の第一次長州征討では長州藩が江戸幕府に対する恭順を示し、戦闘は発生しなかったが、慶応元年(1865年)の第二次長州征討(四境戦争)では、小倉藩は総督・小笠原長行(同じ小笠原氏だが、忠真の兄忠脩の子孫で唐津藩藩主・老中)の指揮下で小倉口の先鋒として参戦した。この戦闘は幕府・小倉藩に不利に展開し、長州軍の領内侵攻により門司が制圧され、小笠原総督は事態を収拾することなく戦線を離脱し、他の九州諸藩も撤兵。孤立した小倉藩は慶応2年8月1日1866年9月9日)小倉城に火を放ち(小倉城自焼は一説に熊本藩の竹崎律次郎の勧めとも言われる)、田川郡香春(現・香春町)に撤退した。香春撤退後も、家老・島村志津摩を中心に軍を再編して企救郡南部の金辺峠及び狸山に防衛拠点を築き、高津尾を前線基地として長州軍に遊撃戦を挑み、一時は小倉城を奪還するに至った。しかしながら、同年10月には他戦線での停戦成立に伴って長州側の兵力が増強され、次第に圧迫されるようになり、多くの防衛拠点が失われ、停戦交渉が開始された。交渉は困難を伴い、停戦成立は翌慶応3年(1867年)1月20日となった。この停戦の条件として、企救郡については、長州征討の根拠の一つであった長州藩主父子の罪が解かれるまで長州藩が預り、引き続き占領下に置くこととされ、小倉藩の手を離れることとなった。企救郡はその後も小倉藩に返還されず、明治2年(1869年)に日田県の管轄に移されることとなる。
慶応3年3月に藩庁を正式に香春へ移転。この香春に藩庁を置いている時期について、後年香春藩と称されるようになる。更に明治2年12月24日1870年1月25日)には京都郡豊津(現・みやこ町)に藩庁を移し、豊津藩となった。なお、藩庁として建設された豊津陣屋の建造物のうち、藩校表門が現存している。
明治4年7月14日1871年8月29日)、廃藩置県により豊津県となった。のち、小倉県を経て福岡県に編入された。
明治17年(1884年)小笠原家は伯爵となり華族に列した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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