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小城 得達(おぎ ありたつ、1942年12月10日 - )は、日本の元サッカー日本代表選手、指導者。広島県広島市千田町(現・同市中区)出身〔。 現広島県サッカー協会会長。 == 人物 == 昭和40年代(1960年代半ばから1970年代半ば)を代表する名選手の1人であり、釜本邦茂・杉山隆一・宮本輝紀とともに当時のスタープレイヤーの一人。 現役時代はフォワード、その後ハーフバック(ミッドフィルダー)もフルバック(ディフェンダー)もこなしたオールラウンドプレーヤー。東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)において第1回日本サッカーリーグ(JSL)から4連覇を達成したチームの中心選手として活躍。また日本代表として1964年東京オリンピックおよびメキシコシティオリンピックでフル出場を果たし、メキシコでは銅メダル獲得に貢献した。 東洋工業時代は主にMFとしてプレーし、高い身体能力を持ち合わせロングパスを駆使するゲームメーカーで、またプレースキックやPKの名手とも言われた〔〔。相手チームから小城にはボールを絶対に渡すなとマークされた〔『日本スポーツ50年史』ベースボールマガジン社、1979年、266頁〕。 代表では主にDFとしてプレーし、その恵まれた身体能力で相手FWのマークを担当した〔〔。 また、気性の激しい選手として知られ、負けん気の強さと地道な努力で、フィジカル・トレーニングを真剣に取り組み強靭な体を作り上げた〔。「ヤツは重量挙げの選手に転向したんじゃないか」という冗談が囁かれたという。「釜本がキレたら小城が抑えるが、小城がキレたら誰も抑えられない」という逸話が残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小城得達」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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