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小宮 民部(こみや みんぶ、文政6年(1823年)- 明治2年(1869年)は、幕末の小倉藩士。諱は親懐。四郎左衛門、又彦、小三郎とも称す。 == 経歴== 秋山家に生まれ天保11年、中老の小宮家を継ぐ。嘉永6年、家老となり、財政改革に尽力し、農兵隊を設立した。藩主小笠原忠幹の信任厚く民部の名を賜る。慶応元年九月、忠幹が没するや、その喪を秘し、幼君豊千代丸を護り難局に当たった。 慶応2年の第二次征長の際は、征長軍総督小笠原長行が去った為8月1日、小倉城を自焼させ香春に退却、その責を負い、のち自刃した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小宮民部」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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